攻城団ブログ

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日本史における「変」と「乱」について対談しました

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昨年末に榎本先生との対談を収録しました。
「本能寺の変」や「応仁の乱」など、日本史には「〜の変」や「〜の乱」がたくさんありますが、こうした政争や軍事クーデターを列挙して俯瞰してみることで、歴史にどんな影響を与えてきたのかをつかめないかと考えました。

じっさいリストアップしてみると133件もあり、4時間も話すことになったのですが、日本史の「パターン」のようなものが見えてきました。
ぜひご覧いただき感想をお聞かせください。


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変とか乱にルールはない

SNSでは定期的に「クーデターに成功したら『変』で失敗したら『乱』」といったデマが流れますが、「本圀寺の変」も「慶安の変」も「禁門の変(蛤御門の変)」も成功していないように、これは明らかに間違いです。
こうした名称は後世の歴史家が命名したものでルールがありません。そもそも「嘉吉の変」と「嘉吉の乱」のように同じ事件を「変」で呼んだり「乱」で呼んだりしていることも多く、名称による差はありません。

ちなみに榎本先生は執筆時に「国史大辞典」の名称に準拠しているとのことでした。
(一般的には武力反乱、秩序への挑戦、内乱状態の出現が「乱」で、権力者が難にあったり、突発的な事件が「変」とも)

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クーデター勃発グラフ

今回の番組を企画するにあたり、3冊の本を読みました。

これらの本で紹介された事件以外にWikipediaで「〜の変」「〜の乱」のタイトルで掲載されてるページをすべて抽出しています。
なお、あくまで名称のみでリストアップしているので、今回は「観応の擾乱」や「明応の政変」のように、同じような事件でも別の名前がついているものは対象外になっています。

それをグラフにしたのがこちらです。

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応仁の乱のように戦乱が複数年にわたる場合、開始年だけでなく終了年まですべて「+1」でカウントしています。
そのため長期の政変・戦乱が多い室町時代、戦国時代は予想通り山ができています。逆に江戸時代は安定していて桜田門外の変あたりから騒がしくなっていく感じです。

グラフ化するだけで見えてくることはあって、たとえば今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉時代初期も事件は多いものの、けっこう散発的で北条時政・義時はゆっくり勢力を固めていったことがわかります。

なお江戸時代も「変」や「乱」こそ少ないものの「お家騒動」は各藩で起きていました。
榎本先生によれば、江戸時代は地方分権で、藩という地方政府のあちこちでそういう事件が起きていたものの、全国的にその混乱が波及することはなかったので「変」や「乱」といった名称が用いられてないのだろうとのことでした。

とはいえ戦国時代以前はお家騒動でも「二階崩れの変」とか「天文の乱」とか変や乱を使ってるのでこのネーミングルールはやっぱり謎です。
(いちおう影響範囲の大きさである程度の基準がありそうですが)

まとめ=大きな流れで理解する

133件のクーデターの歴史を振り返ってみて、当初考えていたとおり、やはり歴史の節目になっていることが多いなと感じました。
いささか強引ではありますが、こんな感じでまとめてみても日本史の大きな流れはつかめると思います。

  • 丁未の乱で物部氏を滅亡させた蘇我氏は聖徳太子の死後さらに勢力を拡大させるも乙巳の変で滅亡
  • 天皇中心の政治になったが、天皇の跡継ぎ争いが起きる=壬申の乱
  • 長屋王の変にはじまる藤原氏の他氏排斥事件が続き、同族内の争いに勝利した北家が栄える
  • 保元の乱で後白河天皇と崇徳上皇が争うと、この内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増す
  • つづく平治の乱で勝利した平清盛が権力を握ることに
  • 平氏政権への不満から反乱(治承・寿永の乱)が起き、源頼朝による鎌倉幕府成立
  • 天皇親政に戻したい後鳥羽上皇が承久の乱を起こすも敗れて配流される、武家政権の確立
  • 腐敗した鎌倉幕府に対して後醍醐天皇が倒幕運動を繰り返し(正中の変・元弘の乱)、有力御家人の足利高氏を裏切らせて勝利
  • 後醍醐天皇は建武の新政を開始するが武士の不満を抑えることができず、離反した足利尊氏に京を追われる(延元の乱)
  • 室町幕府は3代・義満が有力守護を排斥して権力を強化したが、中期には応仁の乱が起こるなど不安定な時期がつづいた
  • 関東では享徳の乱から長享の乱と戦乱が続いて戦国時代に突入
  • 本能寺の変後に織田家を乗っ取った豊臣秀吉が全国を統一して豊臣政権を樹立する
  • 江戸時代は3代・家光の代に島原の乱(島原・天草一揆)、その死後に由井正雪の乱などが起きたが政権中枢を揺るがす事件はそこまで
  • 幕末の尊王攘夷運動がそのまま倒幕運動となり江戸幕府は崩壊する
  • クーデターによって生まれた新政府だが、明治初期には士族反乱と要人暗殺がつづいた

「出る杭は打たれる」というより、権力を握ると腐敗がはじまるといった感じですね。
そして権力者を打倒する勢力が結集して政変を起こし、今度は勝利した側での主導権争いがはじまり、最終的な勝者の子孫がまた腐敗していくという流れが何度も確認できました。
また討伐も一度で終わることはなく、残党が蜂起して反乱を企てるのもパターンですね。

最後に今回リストアップした「変」と「乱」の一覧を載せておきます。

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時代 名称 メモ
古墳時代 463年(雄略天皇7年) 吉備氏の乱 吉備上道臣田狭(きびのかみつみち の たさ)が新羅と結託して大和朝廷に対して起こした反乱とあるが真相不明。吉備上道田狭の妻・稚媛(わかひめ)を雄略天皇が奪ったのが原因とか
古墳時代 479年(雄略天皇23年) 星川皇子の乱 星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)が吉備上道臣一族の支援の元に、雄略天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こしたクーデター。星川皇子は稚媛の子
古墳時代 527年(継体天皇21年) 磐井の乱 朝鮮半島南部へ出兵しようとした大和朝廷軍を、新羅と結んだ磐井が挙兵し妨害した。翌年、物部麁鹿火(もののべ の あらかび)によって鎮圧された
古墳時代 531年(継体天皇25年) 辛亥の変(継体・欽明朝の内乱) 継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したとされる内乱。定かではない
古墳時代 534年(安閑天皇元年) 武蔵国造の乱 武蔵国造の笠原氏の内紛。国造(くに の みやつこ)は大和朝廷における地方支配の役職でその座を同族内で争った模様
飛鳥時代 587年(用明天皇2年) 丁未の乱 仏教の礼拝を巡って蘇我馬子と物部守屋(もののべ の もりや)が戦い、物部氏が滅ぼされた。物部氏の勢力は中央から完全に排除されることとなり、衰退することに。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した(異説もあり)
飛鳥時代 645年(皇極4年) 乙巳の変 中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変。その後にはじまる政治制度改革が「大化の改新」
飛鳥時代 672年(天武元年) 壬申の乱 古代日本最大の内乱。天智天皇の太子・大友皇子(おおとものおうじ)と、皇弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)が戦い、反乱者である大海人皇子が勝利。乱の前、大海人皇子は出家して吉野で過ごしていた
奈良時代 729年(天平元年) 長屋王の変 藤原氏による長屋王の排斥事件。文武天皇(もんむてんのう)に嫁ぎ、聖武天皇(しょうむてんのう)を生んだ藤原宮子(みやこ)は藤原不比等の長女
奈良時代 740年(天平12年) 藤原広嗣の乱 藤原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された
奈良時代 757年(天平宝字元年) 橘奈良麻呂の乱 橘奈良麻呂が藤原仲麻呂(のちの藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ))を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わる
奈良時代 764年(天平宝字8年) 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱) 孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとしたが失敗
奈良時代 780年(宝亀11年) 宝亀の乱 蝦夷の族長であった伊治呰麻呂(これはり の あざまろ)が起こした反乱
奈良時代 782年(天応2年) 氷上川継の乱 天武天皇の曾孫の氷上川継(ひがみのかわつぐ)が謀反を計画したが失敗
平安時代 807年(大同2年) 伊予親王の変 伊予親王が謀反を企んでいると疑われて自殺したが、のちに無罪が認められた
平安時代 810年(弘仁元年) 薬子の変(平城太上天皇の変) 嵯峨天皇と平城上皇(へいぜいじょうこう)の対立=二所朝廷(にしょちょうてい)。平城上皇は自ら東国に赴き挙兵することを決断するが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣してこれを阻止
平安時代 842年(承和9年) 承和の変 藤原北家の藤原良房が自分のおいにあたる道康(みちやす)親王(後の文徳天皇(もんとくてんのう))を擁立するために恒貞親王(つねさだしんのう)を廃太子にした。藤原氏による最初の他氏排斥事件
平安時代 866年(貞観8年) 応天門の変 太政大臣・藤原良房が大納言・伴善男を流刑に処し、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落することに
平安時代 878年(元慶2年) 元慶の乱 出羽国の夷俘(ふしゅう=蝦夷)の反乱
平安時代 901年(昌泰4年) 昌泰の変 左大臣・藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣・菅原道真を大宰府へ左遷した事件
平安時代 935年(承平5年)〜940年(天慶3年) 承平・天慶の乱(平将門の乱、藤原純友の乱) 「東の将門、西の純友」鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった
平安時代 938年(天慶2年) 出羽俘囚の乱(天慶の乱) 出羽国の夷俘(ふしゅう=蝦夷)の反乱
平安時代 947年(天慶10年) 藤原是助の乱 伯耆国の豪族・藤原是助による反乱
平安時代 969年(安和2年) 安和の変 関白太政大臣・藤原実頼により左大臣・源高明が左遷。以後、摂政・関白が常設されることに
平安時代 986年(寛和2年) 寛和の変 右大臣・藤原兼家は孫である皇太子・懐仁(やすひと)親王(後の一条天皇)の即位と自らの摂政就任を早めるために花山天皇の退位・出家を勧める
平安時代 995年(長徳元年) 長徳の変 花山法皇のスキャンダルを政治的に利用した藤原道長が権力基盤を確立させ、道隆の一族、中関白家(なかのかんぱくけ)を排斥した。藤原北家内の争い
平安時代 1028年(長元元年) 平忠常の乱(長元の乱) 平忠常が房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起こした反乱。有力武士の源頼信がこの乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、河内源氏が東国で勢力を広げる契機となった
平安時代 1107年(嘉承2年)〜1108年(嘉承3年) 源義親の乱 隠岐に配流となった源義家の子の義親は出雲国でも乱暴を働いたため平正盛により討伐された。河内源氏の衰退と伊勢平氏の台頭のきっかけに
平安時代 1113年(永久元年) 永久の変 鳥羽天皇暗殺未遂事件
平安時代 1156年(保元元年) 保元の乱 後白河天皇と崇徳上皇の争い。後白河天皇方が勝利したが、この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけのひとつとなった
平安時代 1159年(平治元年) 平治の乱 藤原通憲(みちのり=信西(しんぜい))と藤原信頼とが対立し、通憲は平清盛と、信頼は源義朝と結んで争った。信西・平清盛が勝利し、源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した
平安時代 1180年(治承4年)〜1185年(元歴2年) 治承・寿永の乱 後白河法皇の皇子・以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、平氏政権が崩壊、鎌倉幕府の成立につながった(『吾妻鏡』では1180年が幕府成立年)
平安時代 1184年(元暦元年) 三日平氏の乱(平家継) 平氏都落ち後に、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。じっさいには3日ではなく1ヶ月くらい
鎌倉時代 1189年(文治5年)〜1190年(文治6年) 大河兼任の乱 奥州藤原氏残党である大河兼任による反乱
鎌倉時代 1200年(正治2年) 梶原景時の変 源頼朝の死後、腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件
鎌倉時代 1201年(建仁元年) 建仁の乱(城長茂の乱) 梶原景時の庇護を受けていた城長茂(じょう ながもち)ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱
鎌倉時代 1203年(建仁2年) 比企能員の変 2代将軍・源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事件
鎌倉時代 1203年(建仁3年)〜1204年(元久元年) 三日平氏の乱(若菜五郎) 伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。平賀朝雅(ひらが ともまさ)により3日で鎮圧された
鎌倉時代 1205年(元久2年) 畠山重忠の乱 武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時に攻められて滅ぼされた事件
鎌倉時代 1205年(元久2年) 牧氏の変(牧氏事件) 北条時政と牧の方が3代将軍・源実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようと画策した事件。北条義時と政子により防がれた
鎌倉時代 1213年(建暦3年) 泉親衡の乱 鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児・千寿丸を擁立して執権北条義時を打倒しようと起こした反乱。和田一族を滅ぼす目的で義時が義盛を挑発した可能性も指摘される
鎌倉時代 1213年(建暦3年) 和田合戦(和田義盛の乱) 有力御家人・和田義盛の反乱。侍所別当の和田一族が滅亡したことで、北条氏の執権体制はより強固になった
鎌倉時代 1221年(承久3年) 承久の乱 後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げるも敗れた。乱後、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置いた。朝廷に対する武家政権の優位を決定づけた事件
鎌倉時代 1224年(貞応3年) 伊賀氏の変 北条義時の死去に伴い、伊賀光宗(いが みつむね)とその妹で義時の後妻(継室)・伊賀の方が、伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅(いちじょう さねまさ)の将軍職就任を画策するも政子によって防がれた。政子は京から鎌倉に戻った義時の長男・北条泰時を執権に
鎌倉時代 1246年(寛元4年) 宮騒動(寛元の乱、名越の変) 北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍・藤原頼経(ふじわら の よりつね)が鎌倉から追放された事件
鎌倉時代 1247年(宝治元年) 宝治合戦(三浦氏の乱) 執権北条氏と有力御家人・三浦氏の争い。三浦一族が滅亡
鎌倉時代 1285年(弘安8年) 霜月騒動(安達泰盛の乱、秋田城介の乱) 有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立から安達一族が滅ぼされた事件。この騒動の結果、有力御家人の勢力が弱体化し、得宗家被官(御内人)勢力が強化されることに
鎌倉時代 1293年(永仁元年) 平禅門の乱(平頼綱の乱) 鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を振るった平頼綱が、主君である9代執権・北条貞時によって滅ぼされた事件。以後、御内人の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まる
鎌倉時代 1305年(嘉元3年) 嘉元の乱(北条宗方の乱) 得宗家執事・北条宗方(ほうじょう むねかた)が執権職への野心を抱いて挙兵したとされるが、真相は不明
鎌倉時代 1322年(元亨2年)〜1328年(嘉歴3年) 安藤氏の乱(津軽大乱) エゾの蜂起と安藤氏の内紛が関係して起こった乱。内管領・長崎高資(ながさき たかすけ)の収賄は幕府の腐敗を示し、武力制圧に失敗したことからも鎌倉幕府崩壊のきっかけとなった事件
鎌倉時代 1324年(正中元年) 正中の変 後醍醐天皇とその腹心の日野資朝(ひの すけとも)・日野俊基(ひの としもと)が、鎌倉幕府の討幕を計画した事件。4か月におよぶ幕府の調査の結果、後醍醐天皇は無罪判決を受けた
鎌倉時代 1331年(元徳3年)〜1333年(元弘3年) 元弘の乱 鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力によって起こされた全国的内乱。足利高氏らの幕府離反もあり、鎌倉幕府と北条得宗家は滅亡した
南北朝時代 1335年(建武2年) 中先代の乱 北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児・時行(ときゆき)が、御内人の諏訪頼重(すわ よりしげ)らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている
南北朝時代 1335年(建武2年)〜1336年(延元元年) 延元の乱(建武の乱) 後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた騒乱。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立したが、後醍醐天皇が新たな朝廷を創立したため南北朝の内乱が始まる
室町時代 1366年(貞治5/正平21年) 貞治の変 室町幕府の執事(後の管領)であった斯波義将およびその父で2代将軍・足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件
室町時代 1375年(永和元/天授元年) 水島の変 九州探題・今川了俊(いまがわ りょうしゅん)が、筑前守護・少弐冬資(しょうに ふゆすけ)を暗殺した事件
室町時代 1380年(天授6/康暦2年)〜1382年(弘和2/永徳2年) 小山義政の乱 下野守護・小山義政(おやま よしまさ)が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした反乱。地方の豪族が独立を求めて起こした、日本史上初めての大規模戦争とも
室町時代 1386年(元中3/至徳3年)〜1397年(応永4年) 小山若犬丸の乱 義政の死後、小山若犬丸(おやま わかいぬまる)によって継続された反乱。結果、小山氏嫡流は滅亡
室町時代 1387年(元中4/至徳4年) 小田氏の乱 小田氏が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした反乱
室町時代 1389年(康応元年)〜1390年(明徳元年) 土岐康行の乱 美濃の守護大名・土岐康行が室町幕府に討伐された事件。3代将軍・足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍権力の強化を図っていた
室町時代 1391年(明徳2年) 明徳の乱 山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。結果、11か国の守護領国を誇り「六分一殿」と呼ばれた山名氏の所領はわずか3か国に
室町時代 1395年(応永2年)〜1396年(応永3年) 田村庄司の乱 田村則義・清包父子一族によって起こされた鎌倉府に対する反乱。「小山氏の乱」の一環とみなされている
室町時代 1399年(応永6年) 応永の乱 守護大名・大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱
室町時代 1407年(応永14年)〜1505年(永正2年) 佐竹の乱(山入の乱) 佐竹宗家と佐竹庶流・山入氏(やまいりし)の間で起きた争乱。およそ100年間の争乱で一時的に佐竹宗家が弱まる原因にもなった
室町時代 1411年(応永18年) 飛騨の乱(応永飛騨の乱) 飛騨国司・姉小路家内で起きた騒乱
室町時代 1413年(応永20年)〜1417年(応永24年) 伊集院頼久の乱 島津氏の家督争いに端を発する動乱。7代当主・元久の弟である久豊と、島津重臣で元久の妹を妻としていた伊集院頼久・煕久(元久の甥)の間で争いが繰り広げられ、最後は両者が歩み寄る形で和解。しかし煕久の代に再び本家と対立することに
室町時代 1416年(応永23年) 上杉禅秀の乱 前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に対して起した反乱。鎌倉公方と関東管領の対立に加え、幕府と鎌倉府の対立もあり、関東の動乱のきっかけに
室町時代 1422年(応永29年)〜1423年(応永30年) 小栗満重の乱 上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため所領を没収された小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対して起こした反乱
室町時代 1423年(応永30年)〜1426年(応永33年) 応永の乱(越後応永の大乱) 越後守護・上杉頼方(うえすぎ よりかた)と守護代・長尾邦景(ながお くにかげ)が越後国全体を巻き込んで争った事件
室町時代 1429年(永亨元年)〜1439年(永亨11年) 大和永享の乱 興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった騒乱
室町時代 1438年(永亨10年)〜1439年(永亨11年) 永亨の乱 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じた事件
室町時代 1441年(嘉吉元年) 嘉吉の変(嘉吉の乱) 播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した事件。満祐を討伐した山名持豊の功により山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる
室町時代 1443年(嘉吉3年) 禁闕の変 後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽(しんじ)が奪われた事件
室町時代 1454年(享徳3年)〜1482年(文明14年) 享徳の乱 室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が鎌倉公方・足利成氏と30年近くにわたって争った騒乱。関東の戦国時代の幕開けとも
室町時代 1457年(康正3年) 蠣崎蔵人の乱 蠣崎城主・蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱。形成が不利になり、蠣崎蔵人は蝦夷地に逃れた
室町時代 1457年(長禄元年) 長禄の変 嘉吉の乱により滅亡した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮(あんぐう)を襲い、南朝の皇胤である自天王(じてんのう)と忠義王(ただよしおう、後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件
室町時代 1467年(応仁元年)〜1477年(文明9年) 応仁の乱(応仁・文明の乱) 細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐり約11年間にわたって継続した内乱。1493年(明応2年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる
室町時代 1476年(文明8年)〜1480年(文明12年) 長尾景春の乱 関東管領上杉氏の有力家臣・長尾景春による反乱。鎮圧した太田道灌も1486年(文明18年)7月、主君定正により謀殺された
室町時代 1479年(文明11年) 第一次毛利次郎の乱 因幡の国人・毛利貞元(次郎)が守護山名氏に対して起こした反乱
室町時代 1486年(文明18年) 江戸城の乱 太田道灌を謀殺した上杉定正が、道灌の居城である江戸城に拠る嫡男・太田資康(おおた すけやす)を追放した事件
室町時代 1487年(長享元年) 第二次毛利次郎の乱 毛利・矢部定利らの国人衆は新守護・山名政実を擁立、再び反守護連合を構築して挙兵したが敗退
室町時代 1487年(長亨元年)〜1490年(延徳3年) 長享・延徳の乱(室町幕府vs六角氏) 荘園や奉公衆の所領を押領していた近江守護・六角行高(後の六角高頼)を幕府の威信回復を企図した9代将軍・足利義尚が攻めた。六角征伐とも、鈎の陣(まがりのじん)とも
室町時代 1487年(長亨元年)〜1505年(永正2年) 長享の乱(山内上杉家vs扇谷上杉家) 関東管領で山内上杉家の上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良(ともよし))の間で20年近くにわたって続けられた戦い。一族内での争いにより上杉氏の勢力は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出の端緒となった
室町時代 1489年(延徳元年) 山名新九郎・小太郎の乱 山名新九郎、小太郎が伯耆守護・山名尚之に対して起こした反乱。裏で赤松氏が支援
戦国時代 1502年(文亀2年) 第一次伊庭氏の乱 近江守護・六角高頼と守護代・伊庭貞隆(いば さだたか)の間で行われた内紛。高頼は観音寺城を追われるが和解
戦国時代 1507年(永正3年)〜1518年(永正15年) 永正の乱 関東・北陸地方で発生した一連の戦乱の総称。長尾為景の謀叛、山内上杉家の内紛、古河公方家の内紛など
戦国時代 1514年(永正11年) 第二次伊庭氏の乱 再び出奔した伊庭貞隆が北近江の京極氏および浅井氏の支援を受けて六角氏(このとき当主は定頼、高頼は隠居)と戦う。今度は六角氏側が勝利して、伊庭氏に味方した京極氏衰退の原因にも。なお守護vs守護代の争いというよりも明応の政変以降の足利義材派と足利義澄派の争いと見られる
戦国時代 1519年(永正16年)〜1522年(永正19年) 越中永正の乱 領内を混乱させた越中守護代・神保慶宗を越中守護・畠山尚順の命を受けた畠山義総(能登守護)と長尾為景(越後守護代)が討伐した戦い
戦国時代 1523年(大永3年) 寧波の乱(寧波争貢事件) 日明貿易(勘合貿易)の利権をめぐって大内義興と細川高国が明の寧波で争った事件
戦国時代 1532年(天文元年)〜1535年(天文4年) 天文の乱(本願寺) 本願寺勢力と細川氏・畠山氏の戦い
戦国時代 1533年(天文2年)〜1534年(天文3年) 稲村の変(天文の内訌) 安房里見氏の家督をめぐって発生した内紛
戦国時代 1536年(天文5年) 天文法華の乱 日蓮宗(法華宗)の宗徒が山科本願寺を焼き討ちしたことにはじまる宗派間の紛争。延暦寺と六角定頼の軍勢が京に火を放ち、その被害は応仁の乱を上回る
戦国時代 1536年(天文5年) 花倉の乱 戦国大名・今川氏の家督をめぐって発生した内紛。氏親正室の寿桂尼や太原雪斎らに擁立された栴岳承芳(後の今川義元)が勝利
戦国時代 1537年(天文6年)〜1545年(天文14年) 河東の乱 駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦い。その後、1554年(天文23年)に甲相駿三国同盟が成立
戦国時代 1542年(天文11年)〜1548年(天文17年) 天文の乱(伊達氏) 伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも
戦国時代 1550年(天文19年) 二階崩れの変 豊後の戦国大名・大友氏の内紛。勝利した義鎮(のちの宗麟)が家督継承
戦国時代 1551年(天文20年) 大寧寺の変 戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられた事件。大内氏が実質的に滅亡
戦国時代 1565年(永禄8年) 永禄の変 室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件
戦国時代 1568年(永禄11年)〜1569年(永禄12年) 本庄繁長の乱 揚北衆の本庄繁長が上杉謙信(当時は輝虎)に対して起こした反乱
戦国時代 1569年(永禄12年) 本圀寺の変 三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らが本國寺に籠る室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。信長は義昭のために二条城を造営することに
戦国時代 1569年(永禄12年) 大内輝弘の乱 滅亡した大内遺臣が毛利元就に対して起こした反乱。鎮圧される
戦国時代 1570年(元亀元年) 元亀の変 伊達氏で発生した内紛。伊達晴宗・輝宗政権を支えた中野宗時一族が没落して輝宗の支配は安定化した
戦国時代 1574年(天正2年) 天正最上の乱 戦国大名・最上氏の当主である最上義光と、隠居した父・最上義守との間で起こった争い。伊達輝宗が義守に味方したため、義光方の勝利にともない最上氏は伊達氏より完全に独立する
戦国時代 1576年(天正4年) 三瀬の変 隠居していた北畠具教やその次男で長野氏を継いでいた長野具藤らが織田信雄に謀殺された事件
戦国時代 1578年(天正6年)〜1579年(天正7年) 第一次天正伊賀の乱 織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。信雄が無断で伊賀に侵攻して敗れたため信長は激怒
戦国時代 1578年(天正6年) 御館の乱 上杉謙信急死後、上杉家の家督をめぐってふたりの養子、上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)が争ったお家騒動。景勝が勝利
戦国時代 1581年(天正9年) 第二次天正伊賀の乱 織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。織田軍5万が伊賀を制圧
戦国時代 1581年(天正9年)〜1587年(天正15年) 新発田重家の乱 御館の乱での功績に対して恩賞がほとんどなかった新発田重家が上杉景勝に対して起こした反乱
戦国時代 1582年(天正10年) 本能寺の変 京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃・殺害した事件
戦国時代 1582年(天正10年) 天正壬午の乱 本能寺の変後に武田遺領をめぐって起きた騒乱。北条氏と徳川氏が和睦して氏直と督姫が結婚
戦国時代 1591年(天正19年) 九戸政実の乱 南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直(なんぶ のぶなお)および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。この乱が鎮圧されたことで秀吉の天下統一が完成
戦国時代 1599年(慶長4年) 庄内の乱 島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱。島津氏家中最大の内乱であり、関ヶ原の戦いに島津氏が大軍を送れなかった原因とも
江戸時代 1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年) 島原の乱(島原・天草一揆) 圧政とキリシタン弾圧への不満を抱える領民が起こした反乱。原因をつくった島原藩主・松倉勝家は斬首(大名が切腹ではなく斬首の処分を受けた唯一の例)。寺沢堅高も領地を没収され、のちに精神異常から自害して寺沢家は断絶。鎖国のはじまり
江戸時代 1651年(慶安4年) 由井正雪の乱(慶安の変) 軍学者・由比正雪が幕府に対して起こした反乱。武断政治によって大量に発生した浪人問題が背景にある。この後、幕府の基本政策は文治政治へと移行
江戸時代 1652年(慶安5年) 承応の変(戸次庄左衛門の乱) 浪人の別木庄左衛門(べっき しょうざえもん)によって起こされた江戸幕府老中の暗殺未遂事件
江戸時代 1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱 大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎らが起こした江戸幕府に対する反乱。背景に天保の大飢饉からの米不足があった
江戸時代 1837年(天保8年) 生田万の乱(柏崎騒動) 大塩平八郎に刺激された国学者の生田万が起こした反乱
江戸時代 1860年(万延元年) 桜田門外の変 大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺された事件。幕閣絶対主義を掲げた専制政策路線が破綻するとともに、水戸徳川家と譜代大名筆頭・井伊家の権威が失墜した。尊王攘夷運動が激化するきっかけに
江戸時代 1862年(文久2年) 坂下門外の変 公武合体を推進した老中・安藤信正が江戸城坂下門外で襲撃され負傷した事件。桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した
江戸時代 1863年(文久3年) 朔平門外の変 攘夷派の公家・姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺された事件。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。容疑者が自殺したため真相は不明のままだが、同年の八月十八日の政変(三条実美(さんじょう さねとみ)ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除)が起きるきっかけになった
江戸時代 1863年(文久3年) 天誅組の変 吉村虎太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が大和国で決起した事件。幕府軍の討伐を受けて壊滅
江戸時代 1863年(文久3年) 生野の変 生野において尊皇攘夷派が挙兵した事件
江戸時代 1864年(元治元年) 天狗党の乱(元治甲子の乱) 藤田東湖の子、藤田小四郎(ふじた こしろう)や武田耕雲斎ら水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)が起こした反乱
江戸時代 1864年(元治元年) 池田屋の変(池田屋事件) 京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。新選組の知名度が上がり、長州藩はこののち禁門の変を引き起こした
江戸時代 1864年(元治元年) 禁門の変(蛤御門の変) 八月十八日の政変により京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵。幕府方の勝利に終わる。長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討がおこなわれた
江戸時代 1865年(慶応元年) 乙丑の変(乙丑の獄) 福岡藩で起こった、藩主・黒田長溥による勤皇派弾圧事件。この結果、福岡藩は維新に乗り遅れることに
明治時代 1874年(明治7年) 喰違の変(岩倉具視遭難事件) 東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣・岩倉具視に対する暗殺未遂事件。征韓論争に敗れた西郷隆盛の支持者による犯行
明治時代 1874年(明治7年) 佐賀の乱 江藤新平らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱。鎮圧されたが、以後士族による反乱は続発する
明治時代 1876年(明治9年) 神風連の乱 廃刀令への反対運動として熊本で起こった、明治政府に対する士族反乱。敬神党の乱(けいしんとうのらん)とも
明治時代 1876年(明治9年) 秋月の乱 神風連の乱に呼応して秋月で起こった、明治政府に対する士族反乱
明治時代 1876年(明治9年) 萩の乱 神風連の乱と秋月の乱に呼応して萩で起こった明治政府に対する士族反乱
明治時代 1877年(明治10年) 福岡の変 西南戦争に呼応して起こった明治政府に対する士族反乱
明治時代 1878年(明治11年) 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件) 内務卿・大久保利通が暗殺された事件

番組中でも話しましたが、源実朝は明らかに暗殺なのになぜ「変」がつかないのかは不思議でした。「鶴岡八幡宮の変」とかで呼ばれてもおかしくないんですけどね。
ほかにも本郷先生の本にあった権門体制論と東国国家論については、見立てがあってるかはさておき、変や乱が起こるメカニズムの解釈としてはおもしろいなと思いました。

今回はマクロな視点での番組でしたが、個々の事件について紹介する番組も今後作っていきたいですね。
今年も攻城団テレビを楽しんでください!

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