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【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

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戦国大名・佐竹家として

ところが、佐竹氏の内紛はこれで終わらなかった。
義舜の嫡男・義篤と、弟の義元が後継者争いを起こしたのだ。よくよく内紛が好きな一族だと思うかもしれないが、はっきりいえば戦国時代の名門武家においてこれがごく当たり前の光景だったのである。

名門であればこそ、代々仕えた家臣がおり、また関係の深い中小の国人がいる。彼らの思惑と、「自分で一族をまとめたい」という本家の人々の思いが化学反応を起こし、それが武力衝突という形をとる。
しかし、そうした内乱の末に、ある程度強力なリーダーシップを持った人物が現れ、彼がさらに周辺の国人なども取りまとめて、戦国大名化していく。その連鎖こそが戦国時代という時代だったとさえ言える。

その意味で、この時の内乱は佐竹氏が戦国大名化するための最後の脱皮だったといえる。弟を攻め滅ぼした義篤は佐竹本家の支配力を安定化させ、父・義舜の弟たちから始まる佐竹北家・東家と、義篤の弟から始まる佐竹南家がそれを支える、という体制を確立させることに成功したのである。
義篤の子・義昭の代には江戸氏を完全に屈服させ、また常陸南部の最大勢力である小田氏の領地を大幅に奪い取ることに成功する。この小田攻めの背景には、当時の関東情勢が大きく絡んでいた。

この時期、北条氏康によって公方や上杉氏といった関東地方の旧勢力が排除されていた。
これに対し、上杉氏の名跡と関東管領の座を受け継いだ越後の上杉謙信が1561年(永禄4年)頃よりたびたび関東遠征を繰り返す。関東は謙信と氏康の対決の場となっていたのである。
義昭はこの謙信の力を借りて小田氏を圧迫した。一度はせっかく攻め取った本拠地の小田城を奪い返されることもあったが、謙信が再び関東へやってくると再奪還し、以後は小田氏を抑え込んだ。佐竹家の勢力は常陸南部にまで及んだのである。
義昭の勢力拡大はこれに留まらず、北に向いては金山をめぐって衝突のあった陸奥の白河結城氏を圧迫している。

「鬼義重」の活躍と苦難

時代が義昭からその子・義重の代へと移ると、佐竹家をめぐる運命はいよいよ風雲急を告げるものとなってくる。
この時期は「鬼義重」の異名を持つ当主によって佐竹氏が絶頂を誇った時代であると同時に、最大の危機に陥った時代でもあった。

まず、南においては北条家の動きが活発化する。
それまで繰り返し関東へ侵入していた上杉家が、味方の裏切りによって戦況が悪化すると、1569年(永禄12年)に突如として北条氏との間に同盟を結んでしまったのである。この同盟自体は3年で破局ということになったが、「謙信は信用できない」という思いが北条氏の絶え間ない圧迫に晒され続ける北関東の諸勢力に浸透したのは間違いない。

この少し後のことになるが、謙信は1578年(天正6年)に病没してしまい、上杉氏では後継者争いが起きて、いよいよ北条家に対する押さえとしての力を失ってしまう。
これに対して義重は常陸を統一して足元を固めるとともに、宇都宮・那須・結城といった下野の諸国人と手を結んで「反北条同盟」を結成。さらに甲斐の武田家とよしみを通じて、北条氏に対する圧力として利用する。つまり、大企業の地方進出に対して地元の中小企業が連合を組み、別の大企業とも提携して徹底抗戦の構えをとったわけだ。
また、扇谷上杉家の重臣で江戸城を最初に作った人物として名高い太田道灌の曾孫にあたる太田資正が武蔵の所領を失うとこれを常陸に呼び寄せ、反北条活動を支援するなど、北条家の動きを抑えるための活動を欠かさなかった。

一方、北においても動きがあった。
といっても、こちらは佐竹家主導のものである。義重が長年戦ってきた白河結城氏や蘆名氏との同盟を成立させ、岩城氏を従属させたことにより、佐竹・蘆名を中心とする軍事連合が、伊達家とその支持勢力を除く奥州南部のほとんど全ての勢力によって結成されたのだ。先ほどと同じたとえを使うなら、野心的で目障りな企業をつぶすためにほかの企業が協定を結んだ、というところだろうか。

この軍事連合は義重を中心にたびたび伊達家と戦ったが、決着をつけることはできなかった。それどころか、伊達家の若き当主・政宗がその勢力を伸張させ、むしろ佐竹氏を脅かしてきたのである。
1585年(天正13年)の人取橋の戦いでは三倍を超える戦力で押し寄せたが、倒しきる前に撤退することになった(理由は佐竹一族の者の急死であるとも)。翌々年には当主を失った蘆名氏の家督をめぐって政宗との謀略戦を制し、次男を送り込んで蘆名盛重と名乗らせたものの、彼に従って送り込まれた佐竹家臣と蘆名の譜代家臣の間に対立が生じ、蘆名氏は弱体化。2年後に佐竹・蘆名連合軍と伊達政宗との摺上原の戦いに敗れ、蘆名氏は滅亡してしまった。
佐竹氏は南進する伊達氏から身を守る盾を失ったのである。

また、伊達家はこの時期に北条家と同盟を結んでいる。その主目的は中央で勢力を拡大し続ける豊臣政権への対抗であったと考えられるが、同時に政宗の南進を阻み続ける宿敵・佐竹家を両側から挟み打ちしようという意図もあったはずだ。
こうした情勢において、義重はまず織田信長と、彼が倒れるとその勢力を引き継いだ豊臣秀吉とよしみを通じ、北条家や伊達家といった強敵を抑え込もうとしていた。このことが、北と南からそれぞれ強力に圧迫されて所領を失いつつあった佐竹家を生き残らせることになる。

1589年(天正17年)頃、義重は家督を嫡男の義宣に譲っているが、その後も軍事・外交の両面で実権を握り続けていたようだ。
ちなみに、伊達家の章で触れたように当時の東北地方では婚姻政策による外交がごく当たり前であり、佐竹・伊達間にもそれはあった。なんと、義宣・盛重兄弟の母親が伊達晴宗の娘、すなわち彼らは政宗の実の従兄弟ということになる。

豊臣政権に従う

佐竹氏が「鬼義重」の指揮の下、周辺勢力を結集させて北と南の両方から来るプレッシャーと戦い続けていた時期、中央・西国では豊臣政権が樹立していた。
そして1590年(天正18年)、いよいよその眼が東へ向いた。空前の大軍が関東に迫り、北条家はあえなく滅亡。政宗も秀吉に服従し、佐竹家を長年にわたって苦しめていた二大勢力の脅威が瞬くうちに消滅してしまったのである。

この小田原出兵の背景には、義宣による秀吉への惣無事令違反通報――秀吉が発していた私戦を禁じる通告に北条・伊達の両家が違反しているという申し立て――があり、佐竹家が長年にわたって維持してきた中央とのパイプが威力を発揮した、と見ることができる。
もちろん、実際には秀吉が北条家を攻めるための大義名分として利用されたわけだが、佐竹家単独で伊達・北条の圧迫に対抗できたとは思えないため、双方の思惑が絡み合ってうまくいった、と考えるべきだろう。戦国時代でも現代でも、双方が利益を得る「Win-Win」の関係が理想的であることにかわりはないのだ。

くわえて、豊臣政権との友好関係が佐竹家に更なる恩恵を与える。義宣は早い時期に小田原攻めの陣に参じ、秀吉と謁見している。
この際、常陸の国人衆と共に行ったのだが、秀吉は彼らを「佐竹家の支配下のものたち」と勘違いし、常陸一国および下野の一部の領有を認めてしまった、という。これは以前から昵懇の関係にあった石田三成の入れ知恵であるらしい。

豊臣政権による常陸支配のお墨付きをもらった義宣は、江戸氏や大掾氏といった完全には支配下になかった勢力を討ち、また「南方三十三館」と呼ばれる大掾氏系の国人領主十五名(十六名とも)を祝宴の名目で呼び寄せ、酔った帰り道で殺害するなどの謀略も駆使して、常陸を完全に統一した。
また義宣は朝鮮出兵にも参加。はるばる常陸から北九州の名護屋城を経由して朝鮮まで渡っているが、兵士たちの戦線離脱があまりにも多いことを嘆く手紙を残しており、朝鮮出兵の史料となっている。

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