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【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

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関ヶ原の戦いの失敗

豊臣政権では54万5800石の大大名として存在感を発揮した佐竹家であったが、秀吉死後に勃発した関ヶ原の戦いにおいては難しい立場にあった。
佐竹家は以前から石田三成と親しく、心情的には西軍側であったろう。先述したように豊臣政権の支配下に入る以前から接触があり、常陸の平定にあたっても彼の協力を得たこと。加えて、宇都宮氏が養子問題で改易になった際、縁戚関係にある佐竹家もその余波を受けそうになったが、三成の仲介によってこれを免れる、ということもあった。

1599年(慶長4年)、三成が対立する武断派七将による襲撃を受けそうになった際は、伏見の屋敷から大坂へ急行、自ら三成のいた前田利家の屋敷に赴いて、駕籠に乗せて脱出――と、三成を助けるべく活動している。
家康という強大な敵と戦うにあたって、三成も毛利家・上杉家などと合わせて、大大名である佐竹家の力を頼んでいたことであろう。

しかし、その一方で佐竹家の領地は北関東であり、北条家滅亡後の関東一円を支配する徳川家と隣接している。秀吉死後の情勢が徳川有利に傾いていることとも重ね合わせて、表だって西軍に味方するのは危険すぎる、と考えても無理はない。
そこで義宣が選んだのは、どちらに味方するともはっきり宣言しないままで兵を進めることであった。この背景には三成および上杉景勝との密約があり、機会を見て東軍を挟み撃ちにするつもりだったのだという。

ところが、義宣が関ヶ原の戦いで積極的な行動に出ることはなかった。それどころか、家康やその子・秀忠のもとへ使者を派遣するなど、「どっちつかず」の姿勢を取り続けたまま、終戦を迎えている。
その背景には父・義重の指示があったともいう。戦国時代の動乱を生き抜いた義重からすれば、この土壇場では官僚タイプの三成より老檜な家康の方に勝ち目がある、と見抜いても不思議ではない。かつて耐え抜いた末に伊達・北条の圧迫を切り抜けた義重が、「中立で押し通した方がいい」と考えた、というのもありそうな話だ。

結局のところ、義宣が天下分け目の戦いの際に見せた優柔不断さは、東軍が勝利する要因の一つになってしまった。
もし佐竹氏がはっきりと西軍側に立っていれば東国の情勢はがらりと変わり、関ヶ原の戦いの様相もまた一変したであろうことは想像に難くない。

その後の佐竹家

戦後、佐竹家は家康および江戸幕府に忠誠を誓ったが、戦中の優柔不断な態度を責められて出羽18万石(のちに20万5800石)へ転封されてしまった。その背景に、常陸という江戸から近い位置に外様大名を置きたくない、という幕府の意図があったことは間違いない。

ただ、一方で佐竹家は関東の大名として厳しい罰を下されてもおかしくない立場にありながら(中央より遠い島津家などとは立場が違う)、うまく立ち回って家を存続させた、と見ることもできる。親族関係で結ばれた周辺の名門のうち、宇都宮氏は秀吉によって潰され、結城氏には家康の次男・秀康が入り(しかも彼はのちに松平姓に復姓した)、蘆名氏はついに復興を許されなかった。明確に敵対しなかった大大名をつぶすのはさすがの家康にもできなかったというのもあるだろうが、やはり佐竹氏側の外交努力がうまくいった、室町時代から諸勢力のあいだで生き抜いてきたバランス感覚がものをいった、と考えるべきだろう。

以後、佐竹家は秋田藩の藩主として幕末まで続いている。江戸時代の藩主としては中期に財政対策に奔走する一方で洋画家・小田野直武のパトロンとなり、自身も洋画家として名を残した義敦や、幕末期に財政再建を成功させ、戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟から新政府側に寝返って勝利に貢献した義堯などが知られている。

動乱の中を生きる

佐竹家の歴史をたどるというのは、ほとんど中世から近世にかけての東北・関東地域の複雑怪奇な情勢をたどるということであり、これをまとめるにあたってはかなり苦労した。なにせ、非常に複雑なのだ。
源平合戦における源頼朝の挙兵以降、この地域では数々の動乱が巻き起こり、複数の勢力が並び立って争いつづけた。室町時代末期から戦国時代初期にかけては鎌倉公方・室町幕府・上杉氏の三者のパワーゲームが続き、戦国時代も中期から後期になると北条氏や伊達氏が勢力を伸ばし、また上杉氏や武田氏もたびたび手を伸ばした。

そんな中、新羅三郎義光を祖先とする名門・佐竹氏はたびたび襲い来る外圧と内紛という荒波を切り抜け、どうにかその勢力を維持して平和な江戸時代を迎えた。そこに代々の佐竹氏当主の奮闘と、優れたバランス感覚があったのはここまで見てきたとおりだ。
巨大勢力の圧力を退けるために、ある時は別の巨大勢力によしみを通じ、またある時は他の中小勢力をまとめて連合を形成することによって、佐竹家の繁栄は成立したのである。

そして、中小勢力が波乱の時代を生き抜くのに、この「バランス感覚」が一番必要というのは、現代にも通じる教訓だ。どの企業を味方にし、どの企業と敵対し、どの市場に進出するべきか? もっと小さい視点で考えれば、どの上司に頭を下げ、どの同僚と仲良くし、どの後輩に恩を売っておくべきか? ちょっと矮小な感じは受けるが、時に人生を左右しかねないほど大事な判断で あることにかわりはない。
現代を生き抜く企業戦士諸兄には、佐竹家のバランス感覚を是非見習ってほしいものである。

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