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【10大戦国大名の実力】上杉家①――カリスマの功罪

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軍神か? 人か?

上杉謙信という戦国大名のイメージを簡潔に言い表そうとすれば、「神がかり的な戦の天才」となるだろうか。その意味で、「軍神」という異名は完全に的を射ているように思える。

このあたりは近年のフイクションに登場する「上杉謙信」の姿に顕著だ。たとえばコーエーのゲーム『戦国無双』に登場する謙信は「闘争」という独自の価値観に従って戦い続けるバトルマシーンのように描かれている。同じ戦国時代を題材にしたゲームであるカプコンの『戦国BASARA』においては謙信は性別不詳の美形であり、全てのセリフがひらがなで表記される謎の人物となる。
また、2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』においては耽美的なイメージをもつ音楽家で俳優のGACKTが謙信役を熱演し、女性ファンを中心に熱狂的な人気を獲得した。これらの共通点は「浮世離れしている」というところだろう。

実際、謙信はその生涯のなかでたびたび遠征を繰り返し、周辺勢力にとって恐怖の対象であり続けた。
また仏教の守護神・毘沙門天を深く信奉し、「自分自身こそが毘沙門天の化身である」と言い切るほどでもあったと伝わる。そうした各種のエピソードを見ると、謙信という人物は全く浮世離れした、カリスマ的天才であるかのように後世の私たちには見えるであろう。

ところが、実際に謙信の生涯と彼が統治した上杉家の実情を見てみると、そうしたイメージとは異なる――そう、「地に足のついた」とも言いたくなるような横顔が見えてくる。果たして謙信は真に神がかりな人物であったのか、それとも人としての事情があったればこそ神を名乗ったのか。
本章では謙信のもともとの出身である長尾家と、その主家にして謙信が継承することになる上杉家の歴史、そして戦国期を生きた長尾為景(謙信の父) ・謙信・上杉景勝(謙信の養子)の三人の生涯を通して、謙信の真実に迫ってみたい。そこで見えてくるのは、絶対的なカリスマがもたらす力と、それがなくなった後の悲劇である。

上杉・長尾氏の出自

上杉氏は鎌倉時代から東国で栄えた名門武家であり、その血筋は藤原氏の一流・勧修寺(かじゅうじ)氏にさかのぼる。勧修寺重房(かじゅうじ しげふさ)という人物が丹波国何鹿郡上杉を所領として「上杉」を名乗るようになったという。

特に足利氏と深く結びついた(室町幕府初代将軍・足利尊氏の母がこの上杉氏出身)ことから、室町時代には東国に広く勢力を得た。
その象徴ともいえるのが、主流の山内上杉家が代々継承した「関東管領」である。これはいわゆる関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)に甲斐・伊豆を加えた十力国を統治する「鎌倉府」の役職で、長である「鎌倉公方(足利氏が継承する)」を補佐するのがその役日だ。

山内上杉氏の他にもいくつか有力な家があったが、本章で注目するのは越後守護職を継承する越後上杉家だ。この家は元々山内上杉家から分かれたもので、非常に密接な関係にあった。
さて、その上杉氏に代々仕えたのが長尾氏である。桓武平氏の流れをくむ。発祥には諸説あるが、一説には高望王の子・良文(後に良兼)の孫、景村が相模国鎌倉郡長尾郷を領地として「長尾」を名乗ったのがその発祥とされる。鎌倉時代の内乱で敗者についたために一度は離散したが、上杉氏の執事として復活。室町時代には各地で守護代を務めた。

越後長尾家もその中のひとつで、南北朝時代に活躍して白井長尾家の祖になった長尾景忠が越後を離れた後、越後守護代に任ぜられた弟の景恒を祖とする。
この越後長尾家はさらにいくつかの流れに分かれており、景恒の長男・新左衛門尉を祖とする(彼は戦死してしまったため、三男の高景の家系が跡を継いだ)三条(蒲原)長尾家、次男の景春を祖とする古志(栖吉)長尾家、さらにそこから分かれた上田長尾家の三つが「越後長尾三家」として大きな力を持ったとされる(このあたりの経緯と祖の名前については諸説あり、本コラムでは花ヶ前盛明氏の説に拠る)。
そして、そのなかでも守護代を継承して本流といえる三条長尾家から、のちの上杉謙信が出るわけである。

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