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【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

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その後の上杉家

家督を継承した後の景勝は、一時期織田軍団に攻め込まれて劣勢に陥るも、本能寺の変でそれが中止されたために命脈を保つ。
以後は豊臣秀吉に早くから接触、豊臣政権では「五大老」の一員として十分な待遇を受けた。また、先祖代々の地である越後を離れて、会津120万石への転封を命じられることにもなった。

秀吉の死後は徳川家康のかけた「上杉は謀反を企んでいるのではないか」という疑いと、これに対して景勝の側近として政治を取り仕切っていた直江兼続の出した手紙「直江状」が、関ヶ原の戦いのきっかけになってしまう。
この戦いにおいて景勝は西軍側として最上家、伊達家などと戦うも、西軍は敗北。上杉家はどうにか米沢30万石への減封で許され、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。

江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したことなどから、深刻な財政難に襲われた。
しかし、「生せば生る 成させねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」という言葉で名高い9代藩主の上杉鷹山が財政改革を行い、改善を見ている。

長尾・上杉と「カリスマ」

為景はカリスマになれなかった男だ。彼はあくまで成り上がり者であり実力によって越後を実質支配することはできたが、常に国人衆の反乱に脅かされた。
謙信はまさにカリスマだ。実際にはただ神がかりなだけの男ではなく、家臣統制や経済力強化に苦心した人間であったが、その武力と魅力によって勢力を大いに伸ばした。
景勝はカリスマの跡を継いだ男だ。謙信時代ほどの勢いや強さを維持することはできなかったが、上杉家を江戸時代へつなげることには成功した。

彼ら三人の歴史を振り返って見えてくるのは、「カリスマ」の功罪である。互いに相反する利害を持つ集団を統制するために、神がかったカリスマというのは最高のリーダーである。
実際、国人が並び立つ越後を統率するために、非常に役立った。だが、カリスマがいなくなってしまえば、せっかく作り上げた組織自体が崩壊してしまう。強力なリーダーも良し悪しなのだ。

これは現代の企業や組織などでもまったく同じこと。
たとえば、ワンマン社長が一代で立ち上げた会社が社長の引退後、もしくは社長が力を失った後に崩壊する、というのは実によくある話だ。カリスマの力で対立する集団を一つにまとめていたという「無理」は、カリスマが失われた後に顕在化し、悲劇を呼び込むのである。
それを防ぐには、たとえば景勝のような優れたリーダーが必要になるのだ。

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