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【10大戦国大名の実力】北条家②――関東に進出する北条早雲

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混乱する関東地方

ここから先の北条家の歴史を理解するためには、当時の関東情勢について知っておく必要がある。
上杉家の章で触れたように、室町時代の東国は鎌倉に置かれた「鎌倉府」によって統治されていた。この組織の長官は代々足利氏が継承して「鎌倉公方」と呼ばれ、その補佐役である「関東管領」を代々上杉氏が継承した。
室町時代の各所で見られたことだが、上杉氏が次第に力をつけていくと鎌倉公方と対立するようになり、ここに幕府の思惑も絡んで、関東地方はしばしば三つ巴のパワーゲームの舞台となった。

そうして訪れた決定的な破局が、1454年(享徳3年)の鎌倉公方・足利成氏(あしかが しげうじ)による関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)謀殺に端を発する享徳の乱である。たちまち関東の各地で成氏側と上杉氏側の戦いが行われたが、成氏側が有勢だった。
そこで幕府は今川範忠(いまがわ のりただ)らの軍勢を派遣して成氏を攻撃させる。鎌倉を奪われた成氏は下総国の古河に入ったので、以後彼の家系は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれた。一方、成氏に対抗するための新しい鎌倉公方として、中央から将軍・足利義政の弟・政知(まさとも)が派遣されてきたのだが、上杉氏らの反発によって鎌倉には入れず、その手前の伊豆国堀越に入ることになった。そのため、以後「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれる。

この争いは戦線が膠着化して長引いたが、1478年(文明10年)に古河公方と上杉氏が、2年後に幕府と古河公方が和睦して終わった。ところが、享徳の乱の過程で上杉氏の分家のひとつに当たる扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が、本家にあたる山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)に匹敵するほどに力をつけたことから両者が対立するようになり、関東の動乱はさらに続いていく。
つまり、戦国時代初期の関東は、二つの公方と二つの上杉家が複雑に絡み合いながら勢力争いを繰り広げる混乱の真っただ中だったわけだ。そして、北条家はこの混乱を利用する形で急速に勢力を伸ばしていくことになる。

幕府権威を背景に伊豆へ、そして相模ヘ

話を早雲に戻そう。一国一城の主となった彼に、好機が訪れる。
堀越公方・足利政知の死後、子の茶々丸が異母弟にあたる潤童子とその生母らを殺害するクーデターを起こし、自身が堀越公方となってしまったのである。
これに対して1493年(明応2年)、早雲は堀越御所を攻めて茶々丸を倒し、伊豆を占領することに成功している(この攻撃は5年に及んだとも)。通説ではこの行為は「クーデターを起こして権力を握ったものとはいえ、自身の勢力拡大のために足利一族を倒して一国を奪ってしまった」と理解され、下克上のごく初期の例と考えられてきた。

しかし、近年ではその背景として中央で起きていた政変が取りざたされるようになっている。
早雲の伊豆侵攻と同じ年、時の将軍・足利義材(あしかが よしき)が細川政元により京を追放され、代わって足利義澄(あしかが よしずみ)が将軍となった。彼は政知の子で、茶々丸に殺された潤童子の同母兄であった。
すなわち、将軍の座についた義澄が、殺された母と弟の復讐のために、早雲に伊豆侵攻を命じたのではないか――と考えることができるわけだ。すでに述べたようにもともと早雲は幕府と深い関係を持っているわけだから、この説にも説得力がある。

その後、早雲は相模に進出して1495年(明応4年)には後に北条氏代々の居城となる小田原城を奪い、ここを拠点としてさらに勢力を伸ばす。
この地域に大きな勢力をもつ三浦氏と戦いを繰り返し、1516年(永正13年)にはこの一族を滅ぼして相模を制圧している。その2年後には嫡男の氏綱に家督を譲り、さらに翌年に病没。88歳の大往生であった。

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