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【10大戦国大名の実力】北条家③――誰が北条を名乗ったのか

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北条家はいつから始まった?

早雲は一般に「北条早雲」の名で呼ばれ、本連載でもこれを踏襲している。
しかし、実は生前の早雲がこのように名乗ったことは一度もなく、「伊勢」を名乗り続けた。「北条」を名乗るようになったのは氏綱の時代、1523年~1524年(大永3年~4年)のこととされる。家紋が有名な「三鱗」になったのもこの頃だ。

ただ、早雲自身が「北条」家にこだわっていた、とする見方はいくつかある。「源平交替思想に目をつけた早雲が、庶民の間に『実は早雲は前北条氏の末裔なのだ』といううわさを広めさせた」とする逸話が残っているし、前北条氏が本拠地としていた伊豆北条の一角に韮山城を築き、相模進出後も長くここを居城としていた、という事実もある。小田原城に移ったのも氏綱の時代以降のことなのだ。
どちらにせよ、北条家がこの名前を必要とした理由が、大義名分を求めてのことであったのはほぼ間違いない。戦国大名は私たちが考えるよりもはるかに名分にこだわった。これは、彼らの家臣団や国人衆に対する支配力が弱く、明確な正義や目的を提示しなければ自在に動かすことができなかったからだ。
早雲の時代、北条家は主君である今川家や室町幕府、あるいは「北条」の名前でこの大義名分を補おうとした。だが、これにも限界がある。そのため、二代目氏綱以降、北条家は支配力強化・体制強化に力を入れていく。それが「北条の組織力」につながっていくのだ。

二代・氏綱の武蔵進出

二代目の氏綱は父の志を継いで関東侵攻を続けた。関東ではまだ山内・扇谷上杉氏と古河公方による勢力争いが続いており、氏綱はこれに乗じる形で支配領域を広げ、武蔵へ進出していく。
扇谷上杉家の重要拠点である江戸城を奪ってからしばらくは両上杉家の強い抵抗を受けたが、1537年(天文6)には扇谷上杉家の居城である河越城を奪い取って、武蔵をほぼ制圧することに成功。上総・下総にも手を伸ばしている。
また、父・早雲の代には今川家の家臣としてたびたび遠江へ遠征などしていた北条家だったが、その末期にはほぼ独立大名化しており、さらに氏綱の代になると状況によっては対立するようなこともあった。1537年には駿河の富士川より東の地域を欲する武田家と今川家が手を組んだことから、この地域を領する氏綱が先手を打って攻め込む――いわゆる河束の乱も勃発した。
氏綱の時期に北条家の印判として継承される「虎の印判」が使われ始め、これを押された書状による、郡代や代官任せではない直接支配が推進されたことも見逃せない。「組織力」の萌芽が見え始めたのはまさに彼、氏綱の時代だったのである。

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