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【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

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小田原征伐とその後の北条家

信長の死後に中央を席巻した豊臣秀吉は北条家に対して臣従を要求したが、氏政・氏直親子はこれに従わなかった。
そして1589年(天正17年)、北条家が真田家と名胡桃城をめぐって領土問題を起こすと、これを大義名分として秀吉軍による小田原征伐が開始される。
これは秀吉率いる本隊が西から、上杉・真田・前田らが北から、九鬼・長宗我部らが海から、と三方から総勢21万に及ぶ大軍が北条家を攻め立てる、史上まれに見る大規模な合戦であった。

この際の北条側の様子を示すものとして、「小田原評定」という言葉が残っている。
北条側の諸将が集まって会議をしたがどうするか定まらず、時間ばかりが過ぎていって結局籠城に決まった――というわけで、のちに「なかなか結論の出ない会議」を示す言葉になった、というわけだ。
ただ、これが本当のことであるかどうかは少々怪しい。実際の北条氏は婚姻関係を結んでいた徳川氏を介して和睦の道を探る一方で、要所への城の増築や小田原城を取り囲む総構えの建設、兵士の増員などの対策を取っている。北条家は北条家でできるかぎりの対策をした、と考えるべきだろう。

しかし、秀吉の力は北条家の想像の遥か上をいっていた。豊臣軍は各地の支城を次々と攻め落とし、小田原城を大軍で取り囲んだ。
北条側としては先の上杉謙信による関東遠征の際のように兵糧切れを期待したかっただろうが、秀吉はその莫大な経済力によって物資も充実させており、かつ兵農分離によって農業の時期に左右されず長期間遠征できる軍勢を調えていた。

一方の北条軍は兵農分離が済んでおらず、また物資や士気の問題からも長期の籠城に耐えきれない事態に追い込まれてしまった。また、土地に根付いた組織力を築くということは、裏面から見れば官僚化を招き、不意の事態・許容量を超える事態への適応力を失うということでもある。
北条家は中央で進んでいたイノベーションに対応することができず、結果として滅んだのだ。

このあたりは、北条家を「業界トップ」もしくは「地方トップ」の大企業にたとえてもらえればわかりやすいかもしれない。
新たに積極的な施策を試みて強化をはかる、これまでの伝統を崩す、もしくはプライドを捨てて勇気ある降伏をする――長いあいだ自分たちの領域で優位を高め過ぎた組織は、かえってそのようなアグレッシブな行動が取りにくくなる。役所でよくあるように前例主義に走り、自壊を招いてしまう。この時の北条家はまさにそうした「大企業病」というべき病にかかっていたように思われる。

そして、それを招いたのは皮肉なことに北条家をここまで支えてきた「組織力」だったのではないか。氏綱の代に萌芽を見せ、氏康の代に完成へ至った「関東」という強固な鎧が、それを纏う人間たちの心を弱らせたのではないか。
結果、3ヵ月にわたる籠城戦の末、氏直が秀吉に降伏することによって小田原征伐は終わった。
秀吉は自決を申し出る氏直を許し、代わって氏政とその弟の氏照、及び重臣数名を自決させた。この直後に東北地方の諸大名も秀吉に頭をたれ、秀吉の天下統一は成ったのである。

氏直は高野山に入り、のちに秀吉に許されて1万石を与えられた。氏直の死後はその一部が叔父にあたる氏規の子・氏盛とその子孫に受け継がれ、河内国狭山の大名として江戸時代に残ることとなる。

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