攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

北条家は減亡を回避できたか?

それでは、北条家は豊臣家との対立を回避し、滅亡しない道を選ぶことはできたのか? おそらく、それは不可能だったのではないか。
実際、北条家が秀吉に頭を下げられなかったのは必然だったのでは、と思わせる実例がいくつか存在するので紹介しよう。

豊臣政権が天下を統一した頃、各地の諸大名はまだまだ大きな力をもっていた。
そのため、秀吉はのちに家康が関ヶ原の戦い直後にやったような「敵対した大名をかたっぱしから改易する」という行動には出られなかった。その代わり、加増を名目にした国替えで本来の領地とは違う場所に移す(中央から離れた場所へ移すことが多かった)のが、秀吉の常套手段だったのである。そして、この「大名鉢植え政策」を受け入れられず、潰された大名がいくつもあるのだ。

たとえば、宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)の例がある。彼は北関東で大きな勢力を誇った宇都宮氏の流れを組んでいるが、鎌倉時代より代々、北九州の豊前に根を張ってきた。そのため、秀吉による伊予への国替え命令を断り、居城に籠もって抵抗したものの、謀殺されてしまった。
また、織田信長の子である信雄は北条家滅亡後の国替えにあたって、尾張・伊勢から三河・駿河・遠江へ移るよう命じられたが、代々の領地を離れることを嫌がった末に、領地を奪われて下野へ流されてしまった。

もちろん、拒否したケースばかりではない。
伊達家や上杉家が国替えを受け入れたことは本コラムの別項で述べている通りだし、徳川家康は三河・駿河・遠江から関東へ移された。この扱いに家臣団からは強い不満が出たというが、家康は「むしろ将来の天下取りには有利だ」として抑えたという。そして実際、家康は関東で巨大な勢力を築き上げ、ついに天下を取ってしまった。その背景には、北条家の旧家臣団や組織力を吸収することができた、という事情もあったのではなかろうか。

ひるがえって北条家の場合を考えてみよう。氏政・氏直が早い時期に降伏した場合、間違いなくどこかへ国替えを命じられたはずだ。その時、北条家はそれを受け入れることができただろうか? ――おそらく、難しかったはずだ。
五代百年にわたって積み上げてきた北条一族のプライドがそれを受け入れたとは思えないし、何よりも関東に結びついた組織力という長所が、別の場所に移るという変化を拒絶したはずだ。
間違いなく家臣団の反発から内乱が勃発しただろう。先に紹介した宇都宮家や織田家のケースにも、同じような事情があったはずだ。

家康のような柔軟なリーダーシップを氏政・氏直が発揮できたとも思えない。
逆に言えば、豊臣家側からすればその組織力を奪い取るために国替えをさせないわけにはいかないのだ。結局のところ、北条家は対決と滅亡の道をたどったと考えるべきだろう。

組織力は過信へ結びついたか

北条家は強大な勢力を誇った戦国大名だった。秀吉になかなか従おうとしなかったのも、領土問題を引き起こしてしまったのも、五代百年をかけて築き上げてきた組織力への自信があったことの裏返しであろう。
しかし、それは自信ではなく過信であり、かつて新興勢力として公方や上杉氏を打破した北条家が、この時には新たなイノベーションの力をなくした旧勢力になり下がっていたことの証明だった。

このあたりは現代の企業や組織、そして個人においてもしばしば見られる光景だ。
若い頃には積極的に新しい技術や方法論を取り入れて会社を大きくした社長が、年をとってからは自社を守ることだけに必死な保守的な人間になっている、などというのはまったくめずらしくない話だ。

中央を制覇した秀吉の勢力は北条家が蓄積した組織力をたやすく圧倒し、関東の覇者だった北条家は滅亡の憂き目にあった。それは、旧来の戦国大名の方法論が、信長・秀吉によって磨き上げられた新しい方法論に圧倒され、ある意味で戦国時代が終わらされた瞬間でもあったのだ。

北条氏滅亡後に関東に入った徳川家康は後に豊臣政権を倒し、江戸幕府を開いて天下人となった。
かつて早雲が青雲の志を抱いたという関東の地を最終的に制した徳川が最後には天下をつかんだわけで、その地を整えた「最初の戦国大名」早雲の偉大さを見ることもできる。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する