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【10大戦国大名の実力】織田家③――織田家の強みは経済力

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信秀がつかんだ経済力

さて、こうして織田家の歴史を見てみると、一家臣から一国の実質的支配者にまで成り上がった信秀と、天下人にまでなった信長――この二人の共通点であり、なるほど信長は信秀の後継者なのだな、と思わせるキーワードが浮かび上がってくる。それが「経済力」だ。

まずは信秀のつかんだ経済力について紹介しよう。
弾正忠織田家は信長の祖父・信貞(のぶさだ。信定とも)の代に尾張の西南部・勝幡へ進出し、津島(つしま)を押さえた。この津島は伊勢湾が近い港町であると同時に、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王信仰の中心地の一つ、津島神社の門前町でもあった。自然と富が集まる場所であるわけだ。

信秀はこの富を自分のものにするために、「津島十五党」と呼ばれる有力土豪たちを積極的に懐柔する方針をとった。
彼らは土着の武士であると同時に、広い津島神社の信仰圏を巡回する宗教者であり、また豊かな金融業者でもあった。信秀はそんな彼らの権益を保護し、また津島そのものを他の勢力から守ることによって、津島衆の経済的・武力的支援を受けた。

さらに信秀は同じく港町にして門前町でもある熱田も支配下に置く。
ここにあるのは三種の神器のひとつ・草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を祀ることで有名な熱田神宮(あつたじんぐう)であり、津島にもまして商業・交通上の要地だったのである。ここでも信秀は熱田神宮の保護や熱田に勢力をもつ加藤家の権益を承認することで懐柔に成功し、熱田の経済力を自身のものとしている。

そこで培われた信秀の経済力を示すエピソードがある。
1533年(天文2年)、信秀は代々和歌と蹴鞠の師範を務めている京の公家・飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)を尾張に招いた。目的は蹴鞠の指導である。この時の様子が、雅綱の友人である山科言継(やましな ときつぐ)の日記によって現代に伝わっている。
それによると、公家たちが信秀の財力に大いに驚いたことがわかる。彼らは勝幡城内部の新築の建物が立派であることに驚き、また家老の平手政秀(のちに信長の守役を務めたことで有名)の邸宅に招かれた際には贈られた太刀の素晴らしさや座敷の立派さに驚いている。一方、その後に守護代の清洲城に招かれた際の記述には、そうした驚きがない。

また、この日記からは当時の信秀の立ち位置もわかる。それによれば、信秀がホスト役となって行われたこの雅綱の来訪には、清洲織田家当主(つまり守護代)・達勝(たつかつ)を始めとするさまざまな織田一族や尾張国人が現れ、また信秀と達勝が同格の交流をしていたようなのである。
一傍流にすぎない信秀がここまでの立ち位置を獲得できたのは、経済力とそれを背景にした武力があったればこそなのだ。

経済力が支えた天下取り

信長は父譲りの経済力重視の姿勢を、より大規模で革新的な政策により実行した。
たとえば彼の政策として有名なものに、教科書などでも取り上げられる「楽市楽座」がある。これは従来存在した市に参加するための縛りや、座(同業者組合)による商売上の拘束などを撤廃するもので、経済活動の活発化を目指したものである。
一般的な認識とは違い、この政策は信長のオリジナルではない(近江の戦国大名・六角家が最初におこなったとされる)が、経済面に信長が積極的だったことは間違いない。

そのほかにも、選銭令を出して経済活動を阻害する選銭行為(質の悪い貨幣をより分けること)を禁止したり、諸勢力によって乱立していた関所を撤廃するなど、経済活動を活発化することに余念がなかった。
加えて、父・信秀が津島や熱田を押さえたように、信長も堺や大津といった商業都市を直轄化し、そこから供給される莫大な財力を手にした。

この財力をバックに、信長は自らの軍事力を強化した。一般に、北方の雪国など住環境が厳しいほどに兵士は強くなり、逆に中央の気候が温暖で経済も発展した、豊かな地域出身の兵士は弱い、という。
その意味で、尾張は住みやすい部類に入り、織田家の兵士はけっして強くなかったとされる。

にもかかわらず、織田軍団は天下を制覇した。それは、信長が常備軍化を進めたからだと、される。
当時の兵士は半農半兵であるのが普通で、春から秋にかけての農業繁忙期は動員が難しく、長期間の遠征にも向かない。そこで信長は配下の兵士たちを農村から切り離して城下町に住まわせることで専業兵士とし、何時何処へでも送り出せるようにした。また、鉄砲のような新兵器を運用するためにもこうした兵士の専業化が必要だったのではないか、という見方もできる。

だが、常備軍の編制のためにはそれを支えるだけの経済力が必要になる。それまでは独自に生活していた兵士たちを養ってやらなければならないのだから当然である。
そして、そのためにこそ信長の経済力がものをいった――というわけだ。

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