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【10大戦国大名の実力】斎藤家①――下克上の行く末

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道三伝説の真実とは?

下克上の代表格といえば、北条早雲に並んで名前が挙がるのが「美濃の蝮(まむし)」こと斎藤道三ではないだろうか。一介の油商人から謀略を駆使して一介の主へ成り上がり、人生の最後には息子に背かれて戦場に倒れる様は「乱世の奸雄」としてあまりにも劇的である。
また、彼が才能を認めた娘婿・織田信長が後に天下人へと成長していくのも、道三の物語を壮大なものにしている。「道三自身の野望は絶えたが、信長に受け継がれた」というわけだ。

しかし、近年になって新しい史料が発見されたことで、ドラマや小説でおなじみの「道三成り上がり伝説」は修正を余儀なくされている。
はたして本当の彼はどのように美濃の国を手に入れたのか? そして、彼の子孫はどうなったのか? 本章ではそこに注目していきたい。キーワードは「成り上がりと地盤」である。

こうして道三は国を盗った

まずは、従来の「道三成り上がり伝説」を一通りなぞっていくところから始めよう。
1494年(明応3年)に山城国乙訓(おとくに)郡西岡の浪人・松波左近将監基宗(まつなみ さこんしょうげん もとむね)の子として生まれた道三は、11歳で京の妙覚寺に入れられた。この時の名前は「法蓮房(ほうれんぼう)」である。ところが道三は寺を飛び出し、「西岡庄五郎(もしくは庄九郎、にしのおか しょうごろう)」を名乗った。
やがて油搾り商人、奈良屋又兵衛(ならやまたべえ)の所に婿入りし、「山崎屋庄五郎」と名前を改めた。

諸国を油売りとし渡り歩いた彼は、やがて美濃国守護・土岐氏の重臣、長井長弘(ながい ながひろ)という人物の家臣となった。
妙覚寺での修行中に長弘の弟で僧侶の日護と知り合っており、美濃で住職になっていた彼を介して接近した、というのがその縁であるという。

ここで道三は長井家の家臣である西村家を継いで「西村勘九郎正利」と名乗ったのち、長弘の仲介で土岐一族の一人・土岐頼芸(とき よりのり)に仕えるようになった。
この時、長弘は頼芸の兄で美濃守護の政頼(まさより)にも紹介しているのだが、政頼は道三を「曲者」と判断して遠ざけた。これに対し、頼芸は芸を好んだために京出身の道三が多芸であることを喜んだ――という逸話があって、その後の彼ら兄弟の運命を暗示するものになっている。

この頼芸は自身が守護になれなかったことに不満を持っていた。
室町時代、土岐氏は比較的安定した形で美濃を支配していたのだが、戦国時代初期に家督争いが勃発すると、勢力争いが頻発していたのである。こうした状況を利用した道三は、巧みに彼を煽って謀反へと踏み切らせた。
道三の活躍によりこのクーデターは成功、頼芸は兄を越前へ追いやって念願の守護の地位を手に入れた。こうなると自然と道三の権力も拡大していく。

この後、彼はさらに二度の改名をしている。まずは「長井新九郎規秀(ながい しんくろう のりひで)」。なんと、かつての主君であった長弘を謀殺し、長井家を継いでしまったのだというからすさまじい。
次は「斎藤左近大夫利政(さいとう さこんのたゆう としまさ)」。斎藤氏というのは美濃守護代の一族であり、ここに至ってついに道三は美濃を支配できるだけの名分を手にした。

さすがに彼の独走に対する批判の声が高くなってくると、主君・頼芸を襲って美濃より追放してしまった。
その後、越前に逃げていた政頼と尾張に逃げた頼芸の兄弟が手を組んで道三を攻めたが、道三はこれを打ち破って美濃支配を安定化させた。こうして土岐氏は攻め滅ぼされ、道三の国盗りは成ったのである。

とはいえ土岐一族自体はその後も美濃にいたようだ。のちの龍興の時代、土岐庶流の明智氏が攻め滅ぼされ、その生き残りである明智光秀は紆余曲折を経た末に織田信長に仕えて活躍し、しかし最後には信長を攻め滅ぼしてしまう。この際、光秀が「時は今 雨が下しる 五月哉」と歌を詠み、「時」と「土岐」をかけたという話が有名だが、これは別の話だ。

「道三伝説は二人分」説

話を戻そう。失うものがないゆえに従来のモラルを無視して積極的に行動し、名前を変えるたびに身分を上げ、ついには一国を盗み取ってしまった彼の行いは、動乱と下克上の戦国時代を象徴する存在とさえいわれる。
――ところが、近年発見された史料によって、この伝説が一部修正を余儀なくされている。この「春日力氏所蔵文書」内の「六角承禎条書」によると、妙覚寺の僧侶だったのは道三の父・新左衛門尉で、この人物が美濃にやってきて武士になり、まず「西村」、続いて「長井」を名乗った。そして、その子の道三が「斎藤」を名乗って美濃を奪った、ということになる。

すなわち、通説で道三の「成り上がり伝説」とされていたものは、二人分の業績が混同されて道三ひとりのものとし生まれたものだったのではないか、というわけだ。
新左衛門尉の名前はいくつかの別の史料にも登場するため、この新説は非常に信憑性が高そうだ。

となると、道三の国盗りの背景には、父親の築いた基盤があったことになる。
確かに、商人上がりの男が一代で国を奪えるほどの力をつけたと考えるよりも、まず父親が商人から武士になって成り上がり、その跡を継いだ息子が国を奪ったと考える方が、物語としてのインパクトは落ちるものの、説得力はありそうだ。
また「政頼に仕えていた新左衛門尉が何らかの理由で主君によって殺害され、その復讐を誓った道三は頼芸を奉じて政頼を追い落とし、その後国盗りを図ったのではないか」という意見もあり、これなどは道三のイメージを大きく変える、非常に興味深い視点ではなかろうか。

ところで、こちらの新説でも元々の血筋が山城の浪人、松波家であったことは否定されていない。
この家は元々「北面の武士」――平安時代に上皇の住む院の北辺に拠点を置いて警備・護衛を任務としていた武士集団の一員だったらしい。しかし次第に没落し、道三(もしくは新左衛門尉)の父の頃には浪人となっていた。現代風に言うならば「負け組」であったわけだ。

しかし、道三(新左衛門尉)はそこから抜け出し、中央から地方に流れて頭角を現し、ついには(それが息子の代であっても)一国を奪い取るほどのバイタリティを見せた。京周辺にいたままでは絶対になせないことであったろう。
戦国時代は動乱の時代であり、それこそ「下克上」に代表されるように身分以上の出世ができる時代だった。しかし、そのためには現在の自分の状況を思い切って変えるだけの決断と力が必要とされるのは言うまでもない。このあたりは自身の境遇を嘆く、多くの現代のビジネスマンにも通じる部分ではないだろうか。

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