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【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

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義龍は土岐一族か?

道三の跡を継いだのは嫡男の義龍である。
ところが、義龍は道三が自身の母とは別の女性を正室として迎えて異母兄弟をもうけた頃から父との関係が疎遠になったというから、一応嫡男ではありつつも、どうも早い時期から父子関係は険悪だったのではないだろうか。

それが顕在化するのは、道三が義龍に家督を譲ってから7年後のことである。道三は義龍を廃してその弟にあたる孫四郎を当主にしようと画策し、これに激怒した義龍は弟たちを殺した末に父との対立姿勢を鮮明にした。そしてその翌年、長良川の戦いにおいて道三は息子の軍勢の前に敗死してしまった。
この際、娘婿の信長が救援に駆けつけようとしたが、間に合わなかったという。

このように、義龍が父を殺したのは「家督を奪われそうになったため」と考えられている。
しかし、ここに興味深い別の説がある。それによると、実は義龍の母・深芳野(みよしの)という女性はもともと土岐頼芸の妾で、彼の子を身ごもったままで道三と婚姻し、出産した。すなわち、義龍は道三の子ではなく頼芸の子だ、というのである。

道三は美濃を支配するにあたってこのことをむしろ積極的に利用して権威を確立したが、義龍が長じるとこれが原因となって関係が悪化、ついには両者が対立に至った――というわけだ。
じつにドラマチックであることからしばしば小説の題材などに使用されるが、実際の信憑性には疑問が残る。後世の創作であると考えた方がよさそうだ。

一方、別の見方もある。道三が隠居に追い込まれたのは美濃の国人たちの信望を失ったからだ、というものだ。
実際、長良川の戦いにおいて道三側についた斎藤家臣団はあまりにも少なく、ほとんどが義龍側についた。現在の当主は義龍であるにせよ、一国を盗み取ったほどの男の最後の戦いにしてはあまりにも寂しい。
これは、ここに至るまでの期間に、すでに道三がその信望を失い、追い詰められていたからだ、とは考えられないだろうか。

また、長良川の戦いにおいて、道三は義龍側の六分の一にも満たない数の兵を率いてあえて不利な河原へ進み、そのまま倒れた。その姿勢に、策謀に満ちた生涯を送りながら晩年に息子や家臣に背かれ、すべてを失った男の孤独と悲哀が見える――というのは、感傷的にすぎるだろうか。

道三と信秀・信長

ここで、道三と隣国・尾張の織田家との関係に目を移そう。
道三に追われた頼芸が尾張へ逃れたことからもわかるように、この両者の関係は友好的とは言えないものだった。そもそも、道三と織田信秀(信長の父)は同時期に驚異的な躍進を遂げたという意味では共通しているが、主君を倒した道三と、清洲・岩倉の織田本家筋やさらにその主君にあたる斯波氏とほとんど対立せず、下克上をしなかった信秀――という視点で見ると、対極にある人物ともいえる。

1544年(天文13年)、「土岐氏支援」の大義名分を掲げた信秀は、越前の朝倉氏と呼吸を合わせる形で美濃へ侵入し、道三を攻める。これに対して、道三は織田軍が稲葉山城の城下町に攻め込んだ後、勢いが衰えたタイミングで強烈な反撃を加え、これを撃退することに成功する。道三と信秀はライバルといっていい関係だった。
しかしこの対立関係も道三の娘・帰蝶(濃姫)が信秀の息子・信長に嫁入りすることで終了し、道三が死ぬまでの間、斎藤家と織田家は同盟関係となる。

この際のエピソードとして、聖徳寺(しょうとくじ)の会見がある。あまりにも「うつけ」と評判の悪い信長を一度自分の日で確かめてやろうと会見を申し込んだ。そして当日、道中の小屋に身をひそめて婿の様子を見ようとしていた道三の前に現れたのは、普段よりさらに派手で型破りの恰好の信長であった。だが、ひきつれた兵は通常よりはるかに長い槍を抱えた長槍隊や鉄砲隊など、非常に立派なものであった。

しかも、実際に会見の席に現れた信長の服装は先ほどまでとはうって変わり、正式な礼儀に従い整ったものであった。これには斎藤・織田両家の人々が驚き、「もしや普段の振る舞いは何か意味があってわざとやっているのか」と思わされた。
さらに振る舞いまで丁寧であったのでさすがの道三も圧倒されたが、それでも斎藤家臣のなかには「信長はやはりたわけです」と主張するものがあった。これに対して道三は「私の息子たちはそのたわけの門の前に馬をつなぐ(支配下に置かれる、という意味)ことになるだろう」と言い、自分の息子たちより信長の器量の方がはるかに上である、と認めるのだった。

それから、別のエピソードもある。
信長の後ろ盾として力を発揮した織田一族に、大叔父の玄蕃允(げんばのじょう)というものがいた。道三がこの人物宛に出した手紙が残されているのだが、そこで道三は年若い婿・信長を思いやり、彼を支える玄蕃允が苦労しながら家をまとめようとしていることを労わっている。ここに、嫡男とは不仲になってしまった道三が、その愛情を自身が認めた婿に向けている様子が見えないだろうか。
一説には「道三は信長に美濃を譲ろうと考えていた」とされるほどだが、こうした逸話を見るとそれも信じられるような気になってくる。

義龍の若すぎる死

道三にどんな思いがあったにせよ、結局は義龍に倒されて実現することがなかったのはすでに紹介したとおりだ。
さて、その義龍は父を攻め滅ぼした後に美濃を再統一すると、織田との同盟を破棄してしまった。しかし、信長と義龍のあいだに大規模な直接対決が行われることはなかったようだ。
理由としては、信長の父・信秀の死後に尾張は大きく乱れ、信長はまず身内のなかの敵から先に倒さなければならなかったこと、さらに今川義元が虎視眈々と尾張を狙っていたことなどが挙げられる。信長は義父の仇を討つことを望んでいたかもしれないが、「それどころではなかった」わけだ。

一方の義龍も、美濃国内の安定化を優先したのか兵を挙げて尾張に攻め込みはしなかったが、信長の異母兄・信広と共謀して清洲城を乗っ取らせようとしたり、岩倉織田家を支援したりと、謀略の形で信長を追い詰めていた。こうした部分には道三譲りの才覚を感じることができる。
ところがこの義龍、1561年(永禄4年)に35歳の若さで急死してしまう。美濃国内の制圧後には信長との決戦なども十分考えられただけに、非常に惜しい若死にといえる。

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