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【10大戦国大名の実力】毛利家②――安芸の国衆から戦国大名へ飛躍

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毛利家当主として

最初に元就が戦わなければいけなかったのは身内だった。異母弟の元綱と彼を掲げる毛利一族や譜代の家臣たちが反旗を翻したのである。
元就はこの反乱を鎮圧することに成功するが、彼を怒らせたのは弟の反乱の背後に盟主であるはずの尼子氏の「元就を排除しよう」という意思が隠れていたことだった。結果、1525年(大永5年)に元就は尼子氏と手切れし、再び大内派につく。

ここから毛利家は着実に勢力を広げていく。
特に重要になったのが1540年(天文9年)の吉田郡山城の戦いである。この時、尼子方は総力を挙げて城を取り囲んだが、元就は大内氏の援軍の力を借りてこれを撃退した。
その2年後、今度は大内側が総力を集め、大軍で尼子氏の居城・月山富田城を攻撃した。元就もこれに参加したが、大内側に寝返っていた地元の国人衆が離反したせいで惨敗。大きな被害を受けながらもどうにか撤退した。
この戦いを境として大内氏当主・義隆は軍事への興味を失って文化などにのめり込むようになる。これが後ほど大きな意味を持つのだが、後述する。

「両川」の成立

吉田郡山城の戦いや月山富田城の戦いが行われていた時期は、元就が様々な面で毛利の勢力を強化し、毛利氏がそれまでの「有力な国人」から「戦国大名」へと脱皮していく時期でもあった。
まず、名高い「両川体制」の確立がある。元就は安芸の有力国人だった吉川氏と小早川氏にそれぞれ息子を養子として送り込み、謀略を駆使して乗っ取ってしまったのである。

以前から宿敵として戦い続けてきた安芸北部の吉川氏に次男の元春を、水軍と縁が深い安芸南東部の小早川氏に三男の隆景を養子として送り込み、そのうえで他の一族の殺害や重臣の取り込みなどによって彼らを両氏の当主に仕立て上げたのだ。ともに1550年(天文19年)のことである。
以後、吉川元春と小早川隆景は毛利氏を継いだ長兄・隆元やその跡を継ぐ甥の輝元を支えて、毛利の勢力拡大に尽力していくことになる。この体制についた名前が、吉「川」と小早「川」からきた「両川」体制というわけだ。

粛清による内部統制

元就の謀略は内にも向けられた。
この時期、毛利家内部で大きな力を振るっていた井上元兼とその一族の排除を図ったのである。この一族は元就の父・弘元の代に毛利の傘下に入ったのだが、両親を失った元就を保護し、彼が家督を継承するにあたっては積極的に支持した。

それだけなら元就の支持母体として有力な味方なのだが、彼らは軍役・普請(工事) への参加を拒否し、寺社や同僚の所領を強奪し、傲慢で乱暴な振る舞いが目立ったため、元就の治世にとって明確な邪魔者でもあったのである。
これを排除しなくては、毛利家を統率することはできない――そう判断した元就は、元兼ら三十人を殺し、一気に丼上一族を滅ぼすことに成功した。

この直後、家臣団から元就へ起請文(誓約書)が提出されている。
その内容は元就の支配権を明確に求めるものであり、毛利家が「国人集団のリーダー」から「絶対的な主である戦国大名」へと転身したことを証明するものでもあった。
元就は目に余る井上一族を皆殺しにすることによって他の家臣団を震え上がらせ、この結果を得たのである。これもまた、1550年(天文19年)のことだ。

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