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【10大戦国大名の実力】毛利家③――厳島の戦い

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盟主・大内氏の内乱

両川体制の確立と、内部の引き締め。これらの毛利家の歴史上重大な行動が同じ年に行われているのは果たして偶然なのだろうか?
一説には、この前年に主家にあたる大内氏への挨拶のために本拠である山口へ赴いた元就が、大内氏内部で進行していたとある出来事を察知し、その後の激変に対応すべく急いでこれらを行った、という。

では、そのある出来事とはなにか――答えは「クーデター」である。
実行者は陶晴賢(クーデター前の旧名は隆房)、代々大内家臣団で筆頭の地位を占めた家系の者である。軍事面に興味を失った義隆により冷遇された晴賢は、1551年(天文20年)に彼を自害へ追い込み、代わりの当主を迎えたのである。
この事件に対して、元就は当初晴賢に従う形を見せた。しかし、尼子氏との対立の末に平定した備後の一部を晴賢によって召し上げられたことから反抗を決意。いよいよ元就はその代名詞ともいえる戦いに挑むことになる。
すでに齢は六十に近く、「人生五十年」の時代だったことを考えれば驚異的な、「人生最大の賭け」の始まりである。

厳島決戦と元就の策謀

晴賢との決戦に備えて、元就は驚くほど多数の陰謀を用意し、罠を張った。
この時期には毛利家も安芸・備後の二ヵ国を平定する大勢力になってはいたが、陶家(大内氏)とはやはり比べ物にならない。勝利のためには策略が絶対に必要だった。
元就はまず、敵方の戦力を削ることから始めた、という。晴賢の腹心である江良房栄(えら ふさひで)が自分と内通しているかのように装い、晴賢がそれを疑って誅殺するように仕向けた。一方、毛利家にとっては大内だけでなく尼子も脅威だった。前面の敵と戦っているうちに後方を突かれたのではたまらない。
そこで尼子の有力な軍団である「新宮党(しんぐうとう)」が、やはり自分と内通しているかのように見せかけ、尼子当主・晴久が彼らを壊滅するように仕向けたのである。

元就は自分の手を汚さずに陶・尼子の両家に大きなダメージを与えたわけだ。この二つのエピソードには明確な史料がなくて信憑性に欠け、創作を疑う声も強いが、元就なら十分にやりそうなことなので紹介した。
元就の準備は続く。少数で多勢に勝つには、身動きがとりにくい狭い場所が必要だった。そこで戦場に選ばれたのが厳島である。元就はここに宮尾城を築き、しかしその直後から「ここに城を築いたのは失敗だった、すぐに落とされてしまうだろう」とわざと嘆いて見せた。晴賢を厳島におびき寄せようとしたのである。しかも、留守を守る役の重臣、桂元澄に偽の内通までさせて、晴賢に「絶対勝てる」と思いこませた。

最後の一手として元就が用意したのは、村上水軍を味方にすることだった。
小早川氏の仲介で因島・能島・来島に拠点を持つ村上水軍の協力を得た元就は、彼らの船団によって陶軍の退路を断とうとした。
こうして1555年(弘治元年)、厳島の戦いが勃発した。おびき寄せられた陶軍は毛利軍の奇襲によって満足に戦えないまま敗北し、退路も断たれて大打撃を受け、晴賢を自刃に追い込んだ。
戦いは元就の勝利に終わったのである。

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