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【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

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関ヶ原の失敗とその後の毛利家

豊臣秀吉死後の1600年(慶長3年)、関ヶ原の戦いが勃発する。
この戦いにおいて輝元は名目上の西軍総大将に祭り上げられるが関ヶ原へは出陣せず、大坂城にいた。代わって兵を率いたのは輝元の養子(元は従子弟)の秀元だったが、南宮山に陣取ったままついに動かず、小早川秀秋が東軍に寝返ったのと合わせて、東軍勝利の大きな要因となった。
こうした行動の背景には、毛利家存続のために徳川家康と内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。

戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭順を示す。
ところが、家康は「輝元が積極的に西軍側として活躍していた証拠が見つかったため、約束は無効である」として領国の没収およびうち周防・長門の二ヵ国を功労者である広家にあたえることを発表した。これに対して広家は自身に与えられた二ヵ国を輝元に返すよう家康に頼み、毛利家はかつてあった広大な領地のほとんどを失いながら、どうにか二ヵ国を維持して江戸時代へ入ることになった。

しかしそれから二百数十年が経過した幕末において、長州藩、すなわち毛利家は再び歴史の表舞台に現れる。
幕府の政策に反対して「尊王攘夷」を掲げ、高杉晋作や桂小五郎に代表される数々の維新志士を輩出し、ついには倒幕と明治維新を成し遂げる中心勢力として活躍したのだ。その背景に多くの人々が関ヶ原以来の因縁を見るのは、ごく自然のことかもしれない。

バイタリティの欠如か、元就の方針か

毛利家はこのような経緯をたどった一族であるため、隆元・元春・隆景の代より下の人物には高い評価が与えられないことがほとんどである。
毛利本家の輝元は優柔不断の末に、二度にわたって歴史の流れに介入するチャンスを逃した。吉川家の広家は老檜な家康の陰謀にはめられて彼の勝利に大きく貢献した揚句、あと少しで毛利家をつぶすところだった。小早川家の秀秋は(毛利の血を継いでいるわけではないが)裏切りによって東軍勝利最大の立役者となり、戦後にそのことを気に病んだ末、若くして病死する。確かに、どれも恰好の良い活躍はできなかった大名たちである。

この背景には、やはり先述した「元就死後の毛利」の方針があったように思える。
自身では天下を望まず、その時々の有力者――秀吉なり、家康なり――に接近してきた。その原因が「元就の遺言」にあったのか、それとも輝元の世代の毛利一族には元就のようなバイタリティがなかっただけなのかはわからない。もしかしたら、「自分のようなことはできまい」と孫たちのバイタリティの欠如を見抜いた元就が、遺言を残した可能性もある。

なんにせよ元就死後の毛利家は保守的な方針のもとで行動した。それが戦国の動乱がまだ治まりきっていなかった秀吉の時代にあっては家の隆盛をもたらし、時代が安定を迎えつつあった家康の時代にあっても家を存続させることには成功した。
それはちょうど、企業が時々に合わせて方針を変え、規模も変える――バブル期には人を増やして積極的に各方面に手を伸ばし、冬の時代にはリストラを行って出費を減らしつつ本業を守る――ことと似ている。
言ってしまえばそれだけのことであるのかもしれない。時代状況の変化にどれだけ対応できるかで苦労するのは今も昔も変わらないのだ。

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