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【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

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信長の脅威と死

ここまで好調で走ってきた元親の足が、1580年(天正8年)ごろに一度止まらぎるを得なくなる。その原因になったのが、戦国の覇王・織田信長である。
当初、長宗我部家と織田家の関係は良好であった。元親の妻の兄・斎藤利三が明智光秀の重臣であったことから、このルートを使って元親は信長に接近。信長に嫡男の烏帽子親を務めてもらい、さらに「信」の一字をもらって信親と命名するなど、深い関係を築いていた。

その一方で信長側の元親に対する評価はけっして高いものではなかったようだ。
いわく、「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」――強い鳥がいないからこそ蝙蝠が威張っていられるのだという意味の「鳥なき里の蝙蝠」という言葉にひっかけて、長宗我部家自体の力はたいしたものではなく、四国という有力な大名もいなければ本州からの強力な干渉もない場所だからこそ活躍できているのだ、と皮肉った言葉が伝わっている。

そして、長宗我部家と織田家が対立する日がやってくる。
三好氏への援助を決めた信長は長宗我部氏と決別し、三男の信孝や重臣の丹羽長秀らによる四国遠征軍を組織し、元親を打倒しようとする。その背景には、中国地方の毛利打倒のために三好の水軍を利用しようという思惑があった、ともいう。

これが実現していれば元親は非常に危険な状況に追い込まれたであろうが、そうはならなかった。1582年(天正10年)、信長が本能寺の変によって殺害され、四国遠征も白紙撤回されたからだ。
奇しくもこの謀反を実行したのは、長宗我部氏と縁の深い光秀であった。結果として元親は危機を脱し、再び四国統一に向かってまい進することになる。

宿敵・十河存保との決戦になったのは、本能寺の変と同年に行われた中富川の戦いである。
元親はこの戦いで三好勢に壊滅的な打撃を与え、一気に阿波・讃岐へ侵入。粘る敵に対して両国ともに最後の一城は残した形であったが、実質的に制圧することに成功する。
また、伊予に対しても同時期に侵攻を続けており、守護を務める名門・河野氏の内紛に付け込む形でほぼ制圧したとされる。ただ、近年では毛利氏の援助により抵抗が続いていた、という見方も浮上している。

このように、元親が完全に四国を統一したかどうかは怪しいところなのだが、1585年(天正13年)ごろには四国内の大勢が決していたことは間違いないようだ。
一度滅亡してから77年、土佐を統一してからは10年の早業である。このわずかな期間で領内の支配体制を再構築し、軍団を築き上げ、四ヵ国を侵略しつくしたのだから、国親・元親が相当の実力を持つ戦国大名だったのは間違いない。

統一直後の暗転

こうして四国の統一にほぼ成功した長宗我部家であったが、結局その運命はここが絶頂期で、以後は坂を転げ落ちていくかのように暗転していく。
まず、統一と同じ年のうちに、以前から長宗我部家と険悪な関係にあった羽柴(豊臣)秀吉が、四国征伐の軍勢を挙げた。秀吉自身は病と北陸の佐々成政討伐のために参加しなかったが、弟の羽柴秀長を総大将とし、宇喜多秀家・小早川隆景らが従軍して三方向から四国に上陸した軍勢は総勢11万の大軍であった。

これに対して、元親は四国中央部に位置する白地城を中心に、各地の城に兵を派遣して羽柴軍を食い止めようとしたが――さすがに多勢に無勢、一気に攻め込まれてしまった。
結局、元親は秀吉に降伏。土佐一国の支配だけを許され、豊臣政権に組み込まれることになった。ここに長宗我部家勢力拡大の野心は潰えたのである。

しかも、長宗我部家の不運はこれに留まらなかった。
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けて九州討伐軍に参加したところ、戸次川の戦いで島津家に大敗。嫡男・信親が戦死してしまったのである。
信親は武勇と才覚の双方を高く評価され、父である元親も彼を深く愛していただけに、その嘆きは相当のものであったという。

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