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【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

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後継者問題、そして

ここで起きてしまったのが後継者問題である。
信親の下には次男・親和(ちかかず)、三男・親忠(ちかただ)といった子どもたちがいたにもかかわらず、元親が後継者として指名したのは四男の盛親(もりちか)であった。

その根拠として、親和は香川家を、親忠は津野家を、という具合に別の家の養子に入っていることが挙げられている。そこで元親は盛親に信親の娘と結婚させ、血筋的な正統性を確保した上で後継者としようとしたわけだ。
これに対して、家臣団からは不満が噴出した。二人の兄のどちらかを立てようとする意見がそれぞれにあったし、やはりいきなり四男を、というのには無理が多かったことでもある。

また、次男の親和には豊臣秀吉から「元親・信親が死んだとしても、土佐は親和に与える(没収はしない)」という意味合いの朱印状が与えられていた上、そもそも香川家が四国征伐の際に改易されていたため、「別の家の人間」とはもういえないのでは、という意見もあったようだ。
とくに、吉良親実(きら ちかざね)や比江山親興(ひえやま ちかおき)といった家臣が強く反対したようだ。にもかかわらず、元親は意見を曲げなかった。それどころか、二人を始めとする反対者たちを次々と処刑してしまったのである。

これほど元親が強行的に動いたのには、愛息を失った衝撃もさることながら、久武親直(ひさたけ ちかなお)という家臣の暗躍があったとされる。立身出世を望んだ彼が、自分の自由にできる主を擁立しようとたくらみ、元親に働きかけて盛親を立て、また反対派たちを排除するよう仕向けたというのである。
この後継者騒動は長宗我部家に深い傷を与えた。家臣団に不和を発生させただけでなく、さらなる悲劇の幕開けにもなってしまうのだが、これについては後述する。

長宗我部家の減亡

1599年(慶長4年)に元親が病死すると、盛親が家督を継ぐ。
そしてその翌年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、盛親は西軍に参加して関ヶ原へ出陣した。しかし、毛利勢とともに南宮山に陣取っていたため実際の合戦には参加せず、戦わずに土佐へ戻った後に徳川家康に謝罪した。

ところが、ここで先述した後継者問題の影響が浮上してくる。元親の三男・津野親忠の存在が問題になったのだ。
この以前、親忠は先の後継者問題で不満をもち、一度は京都へ脱出しようとしたことなどを咎められ、元親によって領地を没収されていた。しかし、関ヶ原の戦いで長宗我部家が危機に陥ると、親忠が家康派に強いコネをもっていたことが問題になった。
「この機会に、土佐の一部もしくは全部が親忠に与えられてしまうかもしれない」と恐れた久武親直らが暴走し、親忠を殺してしまったのだ。

これを知って激怒したのが家康である。
上洛した盛親の弁明も聞き入れず、長宗我部家は取り潰し。土佐一国は山内一豊に与えられ、長宗我部の旧臣たちは激しい弾圧に晒される。長宗我部家の存続を目指して一揆も勃発したが親直らの裏切りにより瓦解したほか、一領具足たちが催し物を理由に集められて皆殺しにされたなどという事件も起きてしまっている。この一領具足はその多くが江戸時代に「郷士」という下級武士化した。

さて、家を取り潰された盛親はその後どうなったのだろうか。
彼は京へ上り、「大岩祐夢(たいがんゆうむ)」を名乗って寺子屋の教師をやっていた。そのままなら穏やかに過ごしていたかもしれないが、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発する。
盛親は旧臣をひきつれてこれに参加し、真田幸村らに匹敵する活躍を見せるが、翌年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北。盛親も逃げ延びて山城国へ潜伏したところを捕らえられ、処刑されてしまった。盛親の五人の子どもたちもみな殺され、こうして長宗我部家は滅亡したのである。四国ほぼ統一から約30年、あっという間の夢のようなできごとであった。

元親の蓋は……

土佐の戦国時代が始まってから、大坂の陣で盛親が死ぬまで、約百年。長宗我部家はまさに戦国時代を「ジェットコースターのように」駆け抜けた一族だった。
その結末は残念ながら滅亡という形で終わってしまった。それは結局、彼らは信長が評したところの「鳥なき島の蝙蝠」にすぎなかった、ということなのかもしれない。
戦国時代が終わりに向かって突き進み、豊臣政権や江戸幕府のような巨大政権による日本の運営が進んで、「蝙蝠は鳥の勢いに負けた」のだろう。

ここで見えてくるのは地方勢力の悲劇であり、またイノベーションが遅れたことの悲劇である。
時代の流れについていけない企業は、最新の技術と経営ノウハウをもつ大企業に狙われれば身の守りようがない。「この市場ではトップだ」などという自信があれば、なおさら彼我の力関係を読み誤って泥沼へ踏み込んでいきかねない。
情報をきちんと把握できていれば、たとえばまず大企業の傘下に入り、方法論を学んで、のちに反旗を翻すようなこともできるはずだ。

最後に、長宗我部家の運命を暗示したかのようなエピソードを紹介しよう。
元親が土佐を統一したばかりの時期に、ある寺に立ち寄った。そこの住職は四国統一の野望を掲げる元親を諫め、「あなたにあるのは土佐に蓋をする器量だけで、四国統一を目指すのは茶釜の蓋で水桶に蓋をするようなものだ。運が悪ければ土佐さえも失ってしまうかもしれない」と諭した。

しかし元親はこれを聞かず、「私の器量の蓋は名人の蓋のようなものだから、あと3~4年で四国全土を覆えるほど大きくしてみせる」とはねのけた。
果たせるかな、元親は四国統一にはほぼ成功したが、秀吉によって土佐一国へ押し戻され、その子の盛親は土佐さえも失ってしまった。本当に正しかったのは、やはり住職の言葉だったのだろうか……?

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