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【10大戦国大名の実力】島津家②――島津忠良の相州家継承と貴久の島津宗家継承

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忠良・貴久による統一

内紛を続ける島津に現れたのが、先述した伊作家出身で相州家を継承した島津忠良だ。
後の「島津四兄弟」の祖父に当たる。儒教・仏教の教養にも深く、「いろはにほへと……」を頭文字として教訓を歌にしたものをつくった。これは忠良が出家後に名乗った号「日新斎(じっしんさい)」より「日新公のいろは歌」として後世に伝えられ、薩摩藩の武士が学ぶべき教養の根本として親しまれることになった。
彼から島津氏の躍進が始まる。

この時期、島津本家・奥州家の忠兼(のちの勝久)は三ヵ国守護の地位は保持しながらもそれにふさわしい力を失っている現状を憂い、立て直しを図っていた。
そこで当初は薩州家の実久(さねひさ)の補佐を受けて権力の再構築を図ったのだが、次第に対立するようになると(原因は実久が守護職を得ようとしたためとも)今度は忠良を頼り、彼の息子である貴久(たかひさ)を養子とし、1526年(大永6年)には家督を譲った。

その後、一度実久によって鹿児島の地から追い落としてしまうも、次第に勢力を構築した忠良・貴久は1539年(天文8年)に実久の勢力を一掃。
1545年(天文14)には島津一族に「貴久こそが三ヵ国守護である」と認めさせた。こうして長年にわたる一族内部の争いは終結し、戦国大名島津氏の基盤が成立したのである。

三州統一と体制の強化

内乱を収めて三ヵ国守護を継承したとはいっても、それに実権までがついてきたわけではない。
薩摩北部ですら島津家に従わない地域が多数存在し、それが大隅・日向ともなれば、肝付氏を始めとする有力国人たちがまだまだ勢力を誇っていたのである。
これに対して貴久は、嫡男の義久を始めとする子どもたちを引き連れてたびたび合戦を繰り返した。1570年(元亀元年)には薩摩の統一を成し遂げ、1572年(元亀3年)には木崎原(きざきばる)の戦いで日向の伊東氏を打ち破った。
特に後者の影響は大きく、多数の将兵を失った伊東氏はその後急速に衰退。1577年(天正5年)には日向を追われる。ここに島津氏念願の三州統一は成ったのである。

貴久の時代にはもう一つ注目すべきトビックがある。それは「地頭・衆中制」の確立だ。
これは他の大名家の「寄親・寄子制」に相当するもので、各地に上級家臣としての地頭(寄親)が置かれ、その下に中・下級家臣の衆中(寄子)が配置される。
しかもこの衆中は頻繁に配置転換が行われ、特定の上級家臣や地所と結びついて独立勢力化しないように注意が図られた。長年の内乱経験から得た教訓の上に立ったものであろう。
これによって島津軍団は、当主の支配力の強い一枚岩の軍団へと生まれ変わっていったわけだ。

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