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【10大戦国大名の実力】島津家⑤――朝鮮出兵と関ヶ原の戦い

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豊臣政権下の苦難

話を豊臣政権期に戻そう。この時期最大のトビックは、朝鮮出兵にまつわる出来事である。
朝鮮には病身の義久に代わって義弘が出陣したのだが、集められた軍勢は要求されるものの半分にも満たない、それどころか朝鮮出兵に反対する形で1592年(文禄元年)、島津家臣の梅北国兼(うめきた くにかね)らが武力反乱――梅北一揆を引き起こす、という泥沼状態だった。
この事件の咎は四兄弟の一人・歳久にまで及び、自害へ追い込まれてしまった。

その際、歳久は「私にやましいところは一切ないが、謀反を疑われたからには御家のために自決する」という遺書を残しており、後世の人々がその死を悼んだ。その死が見事であったからこそ、義久にとっては痛恨の一事であったろう。
また、豊臣政権によって行われた検地において、島津家の領地は57万8千石とされたが、痩せた火山灰地から成る領地から実際に収穫できるのは30万石程度。朝鮮出兵での膨大な出費と相まって、島津家の財政は非常に厳しいものとなってしまった。

島津の退き口

秀吉死後の1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いも、島津家にとっては苦難に満ちたものになった。
合戦の2年前、義弘らが朝鮮から戻ってすぐの時期に家康が島津家とよしみを通じようと接近、これを不審がった石田三成が豊臣家に対する忠誠を約束した誓紙を要求――と、両者ともに「来るべき決戦において、島津は是非味方に引き入れたい」と考えていたことがわかる。
それほどまでに九州での彼らの暴れっぷりがすさまじかったということなのだろう。

こうした情勢のなか、合戦開始以前は島津家としては東軍側につく予定だったらしい。
ところが、実際の義弘は西軍として関ヶ原の戦いに参加している。どうしてそうなったのかといえば、三成の挙兵後に義弘が家康との約束に従って伏見城に入ろうとしたところ、城を守る徳川勢に拒否され、激怒した義弘は西軍側に参加したのだ、という。連絡の行き違いか、それとも家康が何かを考えていたのか、真相はわからない。

しかし、義弘の味方した西軍は、味方の裏切りもあって敗北が決定的になる。島津軍はここに至るまでほとんど戦っていないが、それは三成との意見の対立から傍観していたためとも、そもそも兵の数が千五百と少なく、陣取った場所も前線ではなかったためともされる。
だが、島津軍が活躍するのはむしろここから――そう、西軍敗北から史上あまりにも名高い「島津の退き口」が始まるのだ。

通常、撤退というのは敵から逃げるように後ろへ向かってするものだ。
ところが、島津軍は敵のいる前に向かって突き進んだ。立ちふさがる敵を次々と突き破り、なんと家康の本陣をかすめるようにさらに進んで、ついにはわずか八十人ほどになりながらも関ヶ原から逃げ延びてしまった――というのだから物凄い。
ただ、その奮闘も「そもそも義久と義弘のあいだの指揮系統がしっかりしていれば必要なかったのでは?」と見ることもできる。義弘という「もう一人の強力なリーダー」がいたからこそ島津軍は当初の方針とは違って西軍として関ヶ原に参加し、泥沼の撤退戦を戦わざるを得なかった、とすればこの勇猛なエピソードも別の意味を持ってくる。

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