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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点

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――さて、ここまで追いかけてきた城の歴史を見ていただければわかるかと思うのだが、日本の城は基本的に二つの方向性に分かれて発展してきた。戦国時代の城も、その延長線上に存在している。
ひとつは環濠集落や城柵、武士の館の流れを汲むと考えられている支配拠点としてのそれだ。これらは武士の住居であると同時に、行政の発信場所としての役割を持つ。現代風に言うなら、県庁と県知事の公邸を合わせたような存在、といったところだろうか。

自分の領地を支配するための場所なのだから交通の便が大事だ。そのため、たいていは平地(とはいってもわずかに隆起しているところが多い)、あるいは山とその麓の小高い丘や平地を活用して築かれる。前者の場合は平城、後者の場合は平山城と呼ばれる(丘にある城を「丘城」と呼ぶことも多い)。
丘や平地では地形効果を期待できないために、防御能力としてはやや劣りがちだ。しかし、戦国時代も終わりに近づいた時代の平城は、無数の堀や石垣、櫓によって強固な防御を形成しており、その守りの堅さはけして山城に劣るものではなかったのでは、という見方もある。
城とは呼ばれずに「館」あるいは「城館」などと呼ばれるケースが多いものの、本書では城のひとつとして数える。

もうひとつは高地性集落、朝鮮式山城、南北朝期の山城の流れを汲む、防衛拠点としての城だ。まさに戦うための存在、といえる。
これらの城は地形の防御力を活かすために、しばしば山の上に築かれ、山城と呼ばれる。山城の定義としては「比高(二つの地点における高さの差。この場合は近くの平地と比べる)100メートル以上の山地に築かれた城」というものもある。
この戦国時代の山城は、南北朝時代のそれとは違い、長期間立て籠もって戦うことが目的だった。そのため、ただ山という地形に頼るだけでなく土塁や空堀をめぐらせ、また拡張して居住設備を充実させるなど、恒常化。大規模化が進んでいくことになる。

それでも、やはり戦うための城であることに変わりはなく、山の上という敵の攻めにくい、人が行き来のしにくい場所にあるわけで、領地を治めるのには向かない。そのため、山城の麓には居住用の館がセットで築かれるのが一般的だった。普段はこちらで生活して周辺を統治し、ひとたび有事となれば兵を率いて山城に立て籠もって戦うわけだ。
麓の館は主に「根小屋」として知られるが、地域によって多様な呼び方をされており、これは関東の呼び名。他に九州の薩摩では「麓」、中国では「土居」「山下」、また関東でも「堀の内」「箕輪」などと呼ばれていたようだ。

統治拠点としての平城と、防衛拠点としての山城。しばしばこの二つは組み合わせて運用されることがある。すなわち、普段は麓の平城で生活し、合戦の際には裏山や近隣に築いてある山城――「詰の城」に籠もって戦う、というわけだ。これは先述した根小屋と同じ発想だろう。
このパターンの代表例として、甲斐の大名・武田信玄の躑躅ヶ崎館と要害城(あるいは要害山城、丸山の城、積翠寺城などとも)の関係がある。

信玄といえば「人は城、人は石垣、人は堀……」の言葉が有名で、ものものしい城は作らず、人材を重視した、というイメージが強い。実際、彼の居城である躑躅ヶ崎館は「館」の名のとおりの平城で、城下町と結びついたものとなっている。
しかし、躑躅ヶ崎館の北東にある要害山には強固な山城がある。これが要害城だ。
この二つの城は父・信虎の時代に築かれたもの。信玄はこれらを手直しするとともに、甲斐の各地に烽火台を築いて敵の侵攻に即座に対応できるようにし、また新たに進出した信濃にも政略の拠点としての松本城、前線基地としての海津城を築いた(それぞれ現存の松本城・松代城とは違うので注意)。

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