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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

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このような流れを受けて、城は中世的な城郭から近世城郭へと移り変わっていく。
その嘴矢(こうし)となったのが松永久秀の多聞城(多聞山城)、織田信長が足利義昭のために作った二条城(足利義明御所)、信長自らが作り上げた安土城の三つだ。

多聞城は高い石垣と天守閣の原型となる白塗り漆喰の建造物を持った城であり、二条城は一番最初に天守閣を備えた城であるという(金閣寺の影響を受けた、とも)。そして安土城こそが高い石垣と当時では考えられない五層七重の天守閣(天主)をもった、「象徴の城」の先駆けであった。
城の目的が「防衛」と「統治」だった、というのは何度も紹介してきたとおり。しかしこれ以後、そこに三番目が加わる。すなわち、「支配の象徴」であることだ。

金や朱・青などで色取り取りに飾られた安土城は炎に消えた。その後を継いだ秀吉の築いた金と黒に飾られた壮大な大坂城も燃えてしまい、江戸時代に築かれた城は天守閣に白漆喰の壁という画一的な形で、信長・秀吉の華麗な城作りは受け継がれなかったらしい。
それでも、「象徴の城」という発想、外見が大きな意味を持つ城という思想は受け継がれ、信長以外にも各地の統治者たちが模索していた「象徴の城」の工夫の流れが続いていくこととなったのである。

この傾向が決定的になったのは、大坂の陣で豊臣氏が滅亡して後のことである。
秀吉は信長から継承された石垣・水堀をはじめとする築城の技術を加藤清正をはじめとする子飼の諸大名に教え、各地で壮麗な近世城郭を築かせたとされる。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。

またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。
徳川家康と彼が作り上げた江戸幕府による支配が始まってはいたが、まだ大坂城には秀吉の遺児・秀頼がいた。一説には、この頃は江戸幕府と豊臣氏が共存して支配力を持つ「二重公儀体制」であったともされる。何か機会があれば再び戦国乱世に逆戻りする、そのためには城を整えて戦いの準備をしなければならない――諸大名はそんな風に考えていたのかもしれない。

しかし、再び戦乱の時代がやってくることはなかった。豊臣氏は孤立した末に滅び、世は完全に江戸幕府の治めるものとなった。以後、幕末の混乱期まで大名と大名による大規模な合戦が起こることはなくなる。
こうして徳川による平和の時代が訪れると、幕府の警戒は豊臣氏から各地の諸大名に向けられることになった。そもそも天下普請で諸大名を動員したこと自体が彼らの力を削ぐ目的だったのだが、さらに多方面から大名の動きを束縛する方向へ向かっていくことになる。その代表例が「武家諸法度」の制定であったが、この法度の中でも特に城の歴史という点からすると重要なのが、いわゆる「一国一城令」だ。

文字通り「ひとつの国(ある大名の領地ひとつ)に城はひとつまで」とするこの条項によって、諸大名がそれまでに各地に築いていた支城(防衛用の、あるいは遠隔地域の統治用の)は一斉に破棄されてしまった。
それでも、たとえば陸奥の伊達家などは「要害」という名目で城に準じる施設を残すことができたし、ほかにも例外はあった。さらにこの後にも城の建設が絶えたわけではないが、「戦国の城」の終わりが訪れたのは間違いない。

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