そうした実際的な事情が透けて見えつつも、やはり当時の人々が私たちよりはるかに信心深く、神秘的なものを身近に感じていたことは間違いない。なにせ、古代日本の寺院は「御仏に祈って国を守る」役所だったくらいなのだから。
当然、戦国大名たちも信心深かった。彼らは合戦という命がけの戦いに自らや一族、家臣団や領民たちの運命をかけなければならなかったのだから、できることは何でもやった――その中には、神や仏に祈りを捧げる、あるいは各種の儀式を執り行って縁起を担ぐ、という行動も含まれていた。
もちろん、武将たちは城を築くにあたっても神仏の加護を願い、呪術の力を頼り、縁起を担いだ。四神相応もその中のひとつだ。そもそも、現代の私たちだって、家を作るにあたってはまず神主を呼んで、地鎮祭を行うのだから。
城に目を移してみると、天守閣は「仏教的な宇宙を象徴している」という説もあるし、神道の神々を祀る神社や棚のある天守閣も珍しくない。また、いわゆる「鬼門(北東の方角、陰陽道や風水では鬼の通り道とされる重要ポイント)」についても寺社を建てるなどして、かなり気を遣ったようだ。
こうした考えの延長として、「人柱」を用いたのではないか、ともよく言われる。難航する工事を無事完成させるため、あるいはより堅固な城にするために、若い娘などを生き埋めにし、生贄として捧げる、というのだ。
このような人柱にされた恨みで化けて出た幽霊の話などが各地に伝わっているが、実際に人柱が広く普及したかといえば疑わしい。ただ、生きた人間の代わりに人形を埋めて人柱としたであろう例は実際の発掘調査で見つかっているため、そのような概念が実際にあったことは間違いないだろう。
このような築城と呪術のかかわりあいを象徴するのが軍師の存在だ。
私たちは軍師といえば『三国志演義』の諸葛亮に代表されるような天才的策略家をイメージするし、戦国時代にも同じような意味での軍師が多くいたかのように思ってしまいがちだ。しかし、そのイメージは江戸時代に軍楽や軍記物が流行してから形作られたもの、という部分が大きいようだ。
もちろん、各種の策略を考える軍師もいたろうが、それは彼らの役目の一部に過ぎなかった。実際の軍師は各種の特殊技術を活用するスペシャリストという面が強く、特にもともとの姿は「軍配者」といって、合戦の行方を占ったり、出陣前に儀式を行ったり、という呪術者/宗教者的な存在だったのである。
この軍師=軍配者の大きな仕事として、築城があったわけだ。土地の選定や後述する「縄張」などを行うにあたっては呪術的・非呪術的を問わずに多様で専門的な知識。技術が必要とされる。そこにスペシャリストとしての軍師の価値が出てくるわけだ。ちなみに、築城術を特技とした軍師としては、武田信玄に仕えた山本勘介などの名前が知られており、彼はまさに軍配者的な軍師であったという。