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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

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ここまで紹介してきたようなポイントを考慮して城を築く場所が決まったなら、いよいよ「具体的にどんな城にするか」を決めなければならない。
城全体の範囲を決め、それをどのような形で各曲輪(城の区割りのこと)に分割するかを決める。堀や土塁・石垣の位置を決め、虎口(門を含む、城全体や重要拠点の入り口のこと。敵も味方も殺到する重要ポイント)の構造を決め、櫓(武器を備蓄したり立てこもって戦ったりするための建物。これが発展して天守閣になる)の位置を決めていく。

つまり、城の構造を設計するわけで、この工程を「縄張」という。
地面に杭を打ち、縄を張って、どこに堀を掘るか、どこに建物を作るか、というのを示したことからこの名前がついた。ただ、いちいち縄を張っていくのは大変だったためか、大きな城では一部にしか行わなかったらしい。
現代ならばこのように建築物を設計するにあたっては設計図を描くのが当たり前だが、戦国の城においても絵図を描いたようだ。ただ平城はともかく、山城は立体的な存在であり、地形に合わせて複雑な構造になるので、絵で表現するのは当時の技術では難しかった。そこで、土砂や木を使ってミニチュアの城を作ってみて、それを設計図代わりに使うことも多かったようだ。

築城過程は、主に土木工事である「普請」と建築工事である「作事」という二つの言葉で表される。
普請は地面を削ったり盛ったり均したりして平らにし、さらに堀を掘って土塁や石垣を築くのが主な作業だ。土台工事、と考えればほぼ間違いないだろう。その上に各種の構造物・建造物を築くのが作事である。
城全体の構造に大きな影響を与える普請のほうが、その上物を作るに過ぎない作事よりも重要視され、前者は兵学を修めている武士が指揮して行ったが、後者は大工たちに任せられたようだ。

実際の普請を行うのはかき集められた領民たちである。彼らは生産した米の4割~6割をはじめとして多様な税を領主に納めているのだが、その中に賦役・夫役という「労働力で納める税」がある。中世日本ではこれは個人ではなく村ごとに納めるものであり、築城の際には単純に労働力を提供するだけでなく、その後に風雪や時間経過で壊れた際の修理まで、村の責任とされたようだ。

もちろん、武士と農民だけでは城は作れない。そこで、職人の仕事が待っている。作事は職人の担当だったし、普請についても石垣を積むにあたっては職人技が要求されたようだ。
築城にかかわった職人としては、鍛冶職人や大工、石垣のための石を切り出す職人に木材を切り出す大鋸引などに加えて、城内の調度品として各種の細工職人などもいた。

特に名高い職人としては、安土城の石垣を作ったとされる近江の石垣職人集団、穴太衆(あのうしゅう)の名が知られている。
彼らはもともと五輪塔など仏教関係の石工であり、そこで磨いてきたであろう技術を用いて、安土城に革新的な高層の石垣を築いた。以後、城を築いた大名たちは彼らを積極的に招いたので、その名が広く知られるようになったのである。

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