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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑥――落城したその後は?

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最後に、落城後のことを見てみよう。
意外かもしれないが、通常は勝者が敗者を皆殺しにする、ということはあまり起きない。敵味方が簡単に入れ替わるのが戦国の世の習いであったし、そうでなくても無理に皆殺しになどしようとすれば必要以上の抵抗を受け、結果的に攻城側の損害も増えてしまう。
これは馬鹿らしい――ということで降伏勧告したり、逃げられるように仕組む(一方を空けて逃げられるようにする、など)のが一般的だったらしい。

現代風にたとえるなら、同業他社のライバルを倒産まで徹底的に追い込むよりは、ある程度痛めつけてから吸収合併したほうが、人材や資産を丸ごと取り込めてお得、といったところだろうか。
しかし、場合によっては皆殺し――「撫斬(なでぎり)」を行うケースもあった。北条早雲や伊達政宗、織田信長などが行ったことがあった。何らかの怨恨関係があったり、あるいは周辺の諸勢力に対する「逆らったら同じ目にあうぞ」という見せしめをするために行ったようで、結構効果的だったようだ。誰も死にたくはないから、それも当然かもしれない。

それでは、城のほうはどう扱われたのだろうか。奪った城を修復して再利用するケースはもちろん多かったが、そのまま放棄して廃城にしてしまったり、あるいは「城割(しろわり)」といって破壊してしまうケースもあった。
特に織田信長や豊臣秀吉が城割を多用したとされる。たとえば、秀吉が織田家臣時代の中国侵攻の際から、信長の後継者の座を得てからの紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めおよびそこから連続した奥州仕置において、それぞれ攻め落とした地域で「いくつかの城を除いての城割」を命じていることが史料に残っている。

残しておけば反乱に使われる可能性があったからだが、これは信長や秀吉がそれまでの戦国大名では考えられないほどに勢力を拡大し、城を再利用することで減少するコストよりも、城を乗っ取った敵をもう一度攻めるコストのほうが高くなる、と判断したためだろう。

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