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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

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ここでは多様な「城」と「攻城戦」について、主に籠城側の視点をメインにしつつ40のケースを紹介する。
まずは、特に注目して欲しい10の城、10の籠城戦をピックアップして紹介したい。それぞれパターンは違うが、戦国時の城と籠城戦のエッセンスが強く現れた城であることは間違いない。

武蔵の河越城(埼玉県川越市、現在は川越城と呼ばれる)は1457年(長禄元年)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとよ)が家臣の太田資清(おおた すけきよ)に命じて築かせたと伝えられる平城だ。
扇谷上杉氏は東国に広く影響力を誇った名門・上杉氏の一門にあたる。本来は分家筋に過ぎないのだが、戦国時代初期には関東地方の動乱に乗じて大いに勢力を伸ばし、上杉氏の本家筋にして関東管領(室町幕府において東国を実質的に統括する役職)を継承する山内上杉氏に匹敵するほどの勢力にまで成長していた。

河越城はこの扇谷上杉氏の本拠だったのだが、1537年(天文6年)に北条氏によって奪われてしまう。
その後、北条氏が滅亡してからは徳川氏の城となる。ここは本拠地である江戸を守護する重要な拠点だったため、江戸時代には譜代大名が入って北の守りを担うことになった。

1545年(天文14年)、この城をめぐって北条氏と関東地方諸勢力との間で行われた戦いは「河越夜戦(かわごえよいくさ)」の名で知られ、数ある「後詰決戦」のエピソードの中でも特にドラマチックなものとして知られている。
そもそもの始まりは、北条早雲を祖とする北条氏が関東地方においては新興勢力であったにもかかわらず、急成長を遂げていたことである。

この勢力は、元は駿河・今川氏に一城を与えられたに過ぎなかった。しかし、伊豆に攻め込んで堀越公方(室町幕府における東国統括の象徴的役職、鎌倉公方の継承を主張した勢力の片方)を倒し、相模に進出して小田原城を奪い、二代目の氏綱の代には武蔵に出て扇谷上杉氏の本拠である河越城まで奪ったのである。
しかも、氏綱は古河公方・足利晴氏に接近し、「あなたを関東管領にする」という命令まで取り付けていた、という。

これを本来の関東管領である山内上杉氏の当主・上杉憲政が放置できるはずがない。
「新参者のくせに私を無視して関東管領を名乗るとは、ふざけている!」と思っただろうし、もしかしたら「このままでは関東はすべて北条氏のものになってしまう!」とさえ思ったかもしれない。なんとしても、北条氏の威勢を砕いておかなければならなかった。

じつのところ、このとき北条氏の置かれた状況は悪かった。本拠地を奪われた扇谷上杉氏の上杉朝定はもちろん北条氏を敵視していたし、北条氏に接近していた足利晴氏も彼らへの反発を強めていた。氏綱の娘を妻に迎えた後、影響力を強めようとする氏綱の姿勢に不快感を感じていたらしい。
彼ら三勢力がその気になれば、関東中の国人たちはほとんど動員できる。戦国乱世のこの時期でも、それだけの権威はまだまだあったのである。

北条氏の敵は彼ら関東の勢力だけではなかった。
姻戚関係もあって早雲時代には主家であった今川氏と、駿河・伊豆の領有問題でもめていたのだ。その今川氏と同盟関係にある甲斐の武田氏も恐ろしい存在である。
関東の諸勢力と今川・武田に両面から攻められては、さすがの北条氏も危ういかと思われた。

最後の問題として1541年(天文10年)、氏綱の病死があった。代わりに立った三代目の氏康は、このとき27歳。すでに父とともに幾多の合戦を経験してはいたが、この修羅場をしのぎきれるかどうか――非常に怪しいといわざるを得ない。
急成長した北条氏ももはやこれまで、と関東の武士の多くが思ったのではないか。

そのような目処に基づいてか、憲政と朝定が出陣し、さらに晴氏も合流した軍勢は、関東各地の勢力が集まり、約8万5千の「関東連合軍」ともいうべき大軍となって河越城を包囲した。
これに呼応して今川・武田の両氏も北条氏の後背を脅かしたので、氏康はなかなか河越城救援に出られなかった。
しかし、3千の兵で河越城に籠もった北条綱成は名将として名高い人物で、よく城を守ったため、上杉方は長期戦を覚悟し兵糧攻めにする作戦に出た。

このような状況では、城の中と外との連絡をしっかり取らないと籠城側は勝てない。
援軍の動きに合わせて臨機応変に出陣する必要があるからだ。そうでなくても、「味方が助けに来てくれる!」という気持ちがなければ、戦う気が折れてしまうものである。
そこで、氏康は綱成の弟・福島弁千代丸(くしま べんちよまる)を城内に潜入させ、救援の意思を伝えることにした。このとき、弁千代丸は「たとえ捕らわれて、八つ裂きにされても自白することはありません」ときっぱり宣言し、その言葉のままに堂々と城へ入っていった。その姿があんまりにも見事だったので、周囲を取り囲む大軍は弁千代丸に手が出せなかった、という。

一方、氏康は今川氏との交渉に入っていた。背面の安全が保障できなければ、出陣できないからだ。結局、駿河にあった領地を譲り渡すことで交渉は成立し、これで氏康が出陣した隙に今川・武田氏が攻めてくる心配はなくなった。
いよいよ出陣した氏康だが、率いた兵はわずか8千に過ぎない。そこで、まず「籠城している兵たちの命を助けてくれるなら、城は明け渡します」と降伏をほのめかす手紙を送った。もちろん、これは偽装なのだが、氏康が出陣の前から和睦の試みをしていたことがうまく作用したのか、上杉方はすっかり信じてしまったらしい。

氏康の軍勢は曇り空で月も見えない深夜、勝ったつもりで浮かれていたであろう上杉方陣地に突入する。
これに呼応して河越城内の兵も一気に攻めに出た。激しい戦いの結果、数に劣る北条軍は10倍を超える関東連合軍を撃ち破ったのである。この戦いで当主が討ち死にした扇谷上杉氏は減亡し、堀越公方も完全に北条氏の支配下に収められてしまうことになった。
そして、連合軍の中心であった山内上杉氏も勢いを失ってこの数年後には居城を奪われ、憲政は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びることになった。河越夜戦は関東地方の命運を決める一戦となったのである。

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