攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

f:id:kojodan:20220306205331p:plain

後詰決戦の例をもうひとつ紹介しよう。
いわゆる「鉄砲三段撃ち」で名高い「長篠の戦い」も、実は三河の長篠城(愛知県新城市)という城をめぐる後詰決戦だったのである。

長篠城はそのころ今川氏に属していた菅沼元成によって築かれ、その後菅沼氏の居城となっていた平城である。この城は二つの川の狭間の断崖に存在し、川を堀代わりにした、いかにも戦国時代風の城であったようだ。
菅沼氏はもともと奥三河山岳地帯に勢力を持つ豪族たちのリーダー的存在であり、信濃と三河を結ぶ交通上の要所であるこの地に城を築いたのも、それゆえであろう。とはいえ、一国を支配するレベルの大名の視野に立ってみると、菅沼氏も小豪族に過ぎない。その運命は過酷というしかないものだった。

まず、今川氏が三河に進出するとこれに従う。次に、今川義元の死後に徳川家康が三河を統一するとほかの三河国人と同じように彼に従い、甲斐の武田氏が三河・遠江に侵攻して徳川氏の領地を一気に切り取る中でその軍門に下る。というようにその時その時の状況に合わせて有利な側につく、典型的な小豪族の立ち回りをしなければならなかったのだ。
そのように苦労して立ち回ったものの、武田信玄の死後に奪われていた領国を奪回するために進出を繰り返していた家康の手から逃れることはついにできなかった。1573年(天正元年)に徳川の大軍が長篠城を取り囲んだのだ。籠城戦は1ヶ月半の間続いたものの武田方であった奥平氏の寝返りなどを受け、開城。この功を評価され、奥平信昌が長篠城主となった。

これを黙って見ていられないのが、信玄の後を継いだ勝頼だ。
本来の嫡男であった兄が父との確執の末に死に、諏訪氏を継承していたのが急に当主となった勝頼としては重臣たちの間に不和があり、「結果を見せて彼らを納得させなければいけない」という強い強迫観念があったようだ。たびたび遠征を繰り返し、三河・遠江の徳川領が脅かされている。

そんな中、1575年(天正3年)に武田軍による長篠城攻めが始まった。この攻撃は非常に激しく、ただ援軍を待っているだけでは城が落ちるのも時間の問題と思われた。
河越城の項で紹介したように、籠城する際には援軍との情報共有が絶対に必要だ。救援に来てくれるはずの主君・家康、またその同盟者である織田信長と連絡を取り合わなければならない。
この大役を担ったのが、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という家臣であった。彼は密かに城を抜け出して十重二十重に取り囲む武田軍の包囲を突破、三河は岡崎の地までたどり着いていた家康・信長と直接会うことができた。
包囲されて危機に陥った城の様子、および包囲する武田の軍勢の様子を語ると、強右衛門はすぐさま長篠城への帰路を走った。「援軍来る」の報を一刻も早く仲間の下へ届けなければいけない。

だが強右衛門は、こっそりと長篠城に戻ろうとしたところを武田軍に捕まってしまう。
武田軍は強右衛門に「援軍は来ない」と伝えるよう命令した。援軍が来ないと思えば、どれだけ勇敢な兵も長くは戦い続けられない。士気が崩壊すれば長続きはしない――これもひとつの情報戦である。

この時、強右衛門も命を惜しんでその命令を受け入れたかに見えた。しかし、彼がその名に相応しい「強さ」を見せ付けるのはここからだ。
実際に城近くに連れて行かれた強右衛門は、武田軍の命令に従うどころか、「援軍は岡崎の地まで来ていた、後数日で来る!」といったことを大声で叫んだのである。これを聞いて城内の士気が奮い立たないはずがない。
それは同時に強右衛門の死も意味していた。武田軍の命に背いた彼が許されるはずもなく、礫にされ、槍で刺されて殺されてしまった。しかし、彼のこの命がけの行動によって、城内と援軍との間で情報が共用され、戦いは次の展開へと進んでいったのである。

こうしてたどり着いた織田・徳川連合軍は、長篠城の西方に広がる設楽原(したらがはら)に陣を張る。すると勝頼もいくらかの兵を包囲に残して陣を動かし、両軍が対峙する形となる。
この時、連合軍は1万5千~3万5千とされるのに対し、武田軍は7千~1万5千に過ぎなかった。それでも勝頼が戦いを挑んだのは、父以来長年にわたって続く家康との戦いに主力決戦でもって決着をつけたかったのだとも、あるいはせっかく援軍に来たのに陣を張って守勢にこだわる連合軍を侮ったのだ、ともいわれる。

徳川軍の武将である酒井忠次らが武田方の占領する鳶ヶ巣山砦(長篠城の支城)に奇襲を仕掛けてこれを打ち破ると、いよいよ勝頼は後に引けなくなった。後方を突かれ、また長篠城を包囲する部隊も危うくなった以上、残された選択肢は兵力に勝る連合軍を正面決戦で破るしかなかったのだ。
これは武田軍にとって悲劇的な突撃となった。連合軍が厳重な防備の向こうから、用意していた千丁以上の鉄砲で迎え撃ったからだ。襲い来る銃弾が武田軍の兵を次々と打ち倒し、名の知れた名将たちが次々とその命を散らした。幾度かの突撃の末、ついに勝頼は勝機がないことを悟って逃亡。もちろん長篠城を落とせるはずもなく、戦いは武田軍の完敗に終わったのである。

この戦いの最終局面で、連合軍が3千丁の鉄砲を三隊に分けて交替で弾を放ったという「三段撃ち」のエピソードが広く知られている。三つに分けられた部隊のうち、第一陣が撃っている間に第二陣と第二陣が弾込めや準備を順番に行ったので、鉄砲の弱点である「発射に時間がかかる」がカバーされたのだ、というわけだ。
しかし、これは後世の創作であり、実際にそのようなことはなかったとされる。

実際のところ、相当な数の鉄砲も持ち込んではいたらしいのだが、連合軍の勝利の決め手となったのは、鉄砲だけでなく兵、槍、弓、馬などすべての面において、数量が武田軍のそれを上回っていたこと、そして合戦前に作り上げていた「城」にあったようだ。
とはいっても、建物としての城ではない。陣取った丘陵の斜面やそこを流れる川を自然の防衛手段として活用しつつ、空堀を掘り、土塁を築き、柵を立てて、ある種の野戦築城を行ったのである。ただでさえ物量に劣っていたのに、これで武田軍が勝てるはずもない。
いわゆる「戦国最強武田軍団」は、鉄砲ではなく「城」に負けたのである。

kojodan.jp

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する