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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

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城は本来、敵の攻撃を防ぐためのものだ。だから、籠城側の勝利条件は「援軍が来るまで粘り、来たらタイミングを合わせて挟み撃つ」あるいは「相手が諦めるまで粘る」のどちらかが普通だ。
しかし、時には負けるのが目に見えた戦いに挑むこともある。多くの場合、その背景にはやむにやまれぬ事情があるもの――筑前の岩屋城(福岡県太宰府市)のケースなどはその典型といえる。

岩屋城は尾根筋に築かれた自然の防御を誇る城で、北東に位置する宝満城の支城にあたる。この二城は大友氏の重臣・高橋氏の城であった。
ところが、城主だった高橋鑑種(たかはし あきたね)が毛利氏と通じたため、断絶に追い込まれてしまう。しかし高橋氏を断絶させるわけにもということで、1571年(元亀2年)に大友配下の名将として名高い吉弘鎮理(よしひろ しげただ)が家督を継承、高橋鎮種(たかはし しげたね)を名乗った。一般には法号の「紹運(じょううん)」で知られている人物であり、本項ではこの名で統一する。

戦国時代末期の大友氏は、中国地方から進出してきた毛利氏の攻勢を立花道雪(たちばな どうせつ)らの活躍で退けたものの、躍進著しい薩摩の島津氏の南方からの圧迫に苦しんでいた。翻って内側を垣間見れば、時の当主である大友宗麟が強力にキリスト教化を推し進めたせいで内部不和も目立ち、衰退が激しかった。
それでも紹運や道雪といった名将たちが活躍することでどうにか持ちこたえている――それがこの頃の大友氏の姿であった。ちなみに、紹運の子は請われて道雪の婿養子となって立花氏を継承し、立花宗茂(たちばな むねしげ)と名乗る。そしてこれが後の岩屋城の悲劇の伏線となるのだ。

そんな中、ついに島津氏が筑前に攻めてきたのは、1586年(天正14年)のことである。
この時期、大友氏は中央の豊臣秀吉に接近し、島津討伐を働きかけていた。島津氏としては「秀吉が来る前に九州での支配地を広げておきたい」といったところだったろう。
秀吉はこの頃になると北陸の佐々成政・四国の長宗我部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。

天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま順調に行けば九州を統一できる段階であったから、当然といえる。ここにいたって、大友側の課題は「秀吉が動き出す前にどれだけの時間を稼げるか?」となった。
島津氏から見れば、もちろんその逆。急いで先制攻撃を仕掛けなければならない。肥後から筑後、そして筑前へと進んだ島津軍は、四方から岩屋城を包囲した。ここを守っていたのが、誰あろう紹運である。

息子たちのための玉砕だったのか?

本来、紹運は高橋氏の居城である宝満城に入るべきだった。にもかかわらず、あえて岩屋城に入ったのはなぜか。理由は二つほど推測されている。
ひとつは、宝満城には高橋氏以外にも複数の勢力の軍が入り、内部統制に問題があったらしきこと。そしてもうひとつは、岩屋城の北方に、彼の実子である立花宗茂の籠もる立花城があったことだ。

なんといっても、敵は大軍だ。もし迂回するようなことがあれば、立花城は攻め落とされてしまう可能性が高い。しかし、岩屋城で敵を惹き付けることができれば、秀吉の援軍が間に合って、息子と主家を守れるかもしれない――それこそが700人あまりの小勢で岩屋城に籠もった紹運の思惑だったのではないか?
実際、紹運が空けた宝満城には、彼の次男である高橋直次が入っている。二人の息子を守るために名将が必死の覚悟を決めたというのは、いかにもドラマチックなエピソードではないだろうか。

一方、島津軍の行動も慎重だった。
この程度の城、この程度の小勢はそのまま踏み潰せばいいようなものだが、島津軍側にも問題があったのである。3万あまりの大軍ではあったのだが、その多くは戦意の低い外様の部隊で、数どおりの実力は発揮できない状態だった。事実、岩屋城に至るまでにも大きな損害を出してしまっている。
その上で、立ちはだかるのが名将・紹運となれば――彼らがじっくりと戦う気になったのも、無理はない。

実際、紹運は強かった。周辺を焼き払うことによって足場を安定させた島津軍は、盾で身を守り城に突進したが、高橋軍の銃撃によって撃退され、多くの兵を失ってしまう。その後も島津軍は何度か攻撃を仕掛けたが、その度に失敗を繰り返すことになった。
それでも、数の差はどうにもならなかった。島津の軍勢は岩屋城を取り囲んでいる兵だけではないのだ。
戦闘が始まってから1週間ほどで到着した新手が城の堀を埋め立て、塀を取り壊すと、総攻撃が始まる。四方から攻め込む寄せ手に対して紹運らも必死の抵抗をし、戦いは泥沼のような消耗戦に突入した。こうなってしまっては、小勢の岩屋城側にはどうにもできない。

こうして、戦いが始まってから半月で岩屋城は陥落した。紹運以下、763名の城側(最終的には1000人程度には増えていたとも)はひとりたりとも生き残らず、全員玉砕して果てた、という。
それでも、彼らの死は犬死にではなかった。岩屋城で足止めを食らった上に多くの犠牲者を出した島津軍が筑前を制圧し、立花城を攻め落とすようなことも、またなかったからだ。
宝満城は攻め落としたものの続く立花城は落とせず、そうこうしているうちに秀吉の派遣した軍勢が到着してしまった。陣形を整えるために撤退した島津軍を宗茂率いる立花城の軍勢が追撃し、少なくない損害を与えている。
この一連の出来事に圧倒的な窮地に諦めなかった名将の意地を感じるのは、私だけではないかと思う。

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