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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

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本連載前半で繰り返し名前を挙げたように、近江の安土城(滋賀県近江八幡市)は戦国の城から近世城郭への移り変わりのターニングポイントとされる、重要な城である。
1576年(天正4年)に織田信長が家臣の丹羽長秀に命じて、築城を開始させた。信長が天下布武の拠点として築いた城ということもあって、彼が自ら普請の指揮をとることもあったという。

壮大な石垣はこの以後にすらまれに見る規模であり、五層七重の天守閣(信長は「天主」と称した)は白、黒、朱、青などそれぞれの階で配色が異なり、最上階は黄金に輝いていたという。また、近畿の各地から大工や職人たちが集められ、外装も内装も徹底的に装飾が施された。
内側の話をすると、なんと安土城の内部は空洞の吹き抜けになっていて、一番下には多宝塔があり、中空に能舞台を吊り上げる仕組みまであったという。とてつもなく奇想天外な構造といわざるを得ず、安土城を訪れた当時の人々はさぞ腰を抜かし、それを見た信長は相当に喜んだことであろう。

このように、安土城は「象徴の城」という要素が非常に強かった。派手好きで新しい物好きの信長がその趣味を爆発させた存在であり、またそれ以上に「これほどのすばらしい城が作れる者に逆らうべきでない」という畏怖を感じさせるための城であった、と考えるべきだろう。

もちろん、これは戦国時代の城である。戦うこと、政治を行うことを無視していたはずがない。
地理の面で見ても、西に向かっては琵琶湖の内湖に面し、水上交通が活用できる。当時、琵琶湖の水上交通は重要な存在だったのだ。東に向かっては中山道が走り、京に入るにしても、あるいは北陸や東海に出るにしても、非常に便利な位置関係にある。
陸上交通と水上交通の両方を活用できることで、安土の城下町は大いに栄えたとともに、信長はいつどこに出陣することになっても迅速に兵が動かせたわけだ。

また、この安土城には天皇が行幸するための建物が築かれていたらしい。
実際に行幸が行われることはなかったようだが、信長はもともと将軍や天皇といった権威を活用するのが意外なほどうまかった男である。「天下人の城」に天皇を迎えることで、さらなる権威付けを図った、というのは十分にありうる話だ。
防衛という面から見ても、標高199メートルの安土山に築かれ、壮大な石垣を備える安土城が戦って弱かったとは思えない。近年の調査で、城下町全体を囲む「惣構」の土塁らしきものが描かれた絵図も見つかっている。この城は、その美しさに違わぬ堅牢さを発揮しただろう――もし、戦う機会が来たのならば。

実際のところ、その時は結局こなかったのである。安土城は織田政権が天下を統一するより早く、失われてしまった。
1582年(天正10年)、信長は本能寺の変で倒れ、それからあまり時をおかずして安土城も炎上してしまった。
信長の息子・信雄が謀反人と戦っている中でうっかり火がついてしまった、いいや信雄は自ら天主に火をかけたのだ、実のところ謀反側がやったのだ、などと諸説あるが、はっきりしない。

間違いないのは、信長が築き上げた世紀の名城がもはや存在せず、その後の歴史にもまったくかかわることがなかった、ということである。信長の死後に織田氏がまったく存在感を発揮せず、歴史の本流に消えてしまったことと奇妙に符合するような気がするのは、私だけだろうか。
織田政権の根拠地として、天下を支配する城となるはずだった安土城は、その役目を十全に果たすことなく消えたのだ。それは、「織田信長」という一人の天才のイメージが具現化した存在であったが故の傍さであったのだろうか。

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