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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

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ここからは、与えられた役目をきっちり果たした城を紹介していく。
まずは籠城戦として非常に理想的なケースを紹介したい。

安芸の毛利氏が本拠を置いた吉田郡山城(広島県安芸高田市)は、1336年(建武3年)に当主の時親が築城したとされている。当初は小さな山城だったが、築城以来長く毛利氏の居城として使用され、毛利元就が十三代当主となり入城すると郡山全体を要塞化した巨大な城に拡張された。
やがて豊臣秀吉による天下泰平の時代が到来し、毛利氏が豊臣政権の重鎮となって大きな発言力を有するようになると、統治には不便な吉田郡山城も実質的に役割を失う。毛利氏は新たな居城として広島城を築いて移住、吉田郡山城は廃城となったのである。

戦闘用の山城である吉田郡山城がその真価を発揮したのは、1540年(天文9年)、安芸に侵攻してきた出雲の尼子氏との戦いにおいてだった。もともと、毛利氏は九州二強のうち周防の大内氏の傘下にあったが、一時期尼子氏に付き、再び大内氏に寝返ったという経緯があった。
このように大勢力の間を行ったり来たりするのは戦国時代なら珍しくはなかったが、尼子氏としては見過ごせない。同じような裏切り者が出ないように、見せしめとしても毛利氏を滅ぼさなければならなかった。

大軍で押し寄せた尼子方は、徐々に包囲網を狭めながら吉田郡山城に迫る。
一方の毛利氏は、尼子氏の来襲を知って国人たちを城に避難させていた。この時ちょうど米の収穫時期だったため、避難の際に収穫した米を城に持ち込ませ、籠城戦の準備を整えていたのだ。

いよいよ尼子方が攻め寄せる。当初、元就は尼子軍の挑発には乗らず、城に籠もっていた。しかし、城下に迫った敵が町々に放火して回ると、ついに両者は正面衝突。毛利軍は正面の部隊と伏兵とで尼子軍を挟み撃ちにし、損害を与えた。
1ヶ月後、尼子軍は陣替えをして毛利軍に総攻撃を仕掛けたが、この時元就は自らが囮となって出撃。まんまと引っ掛かった尼子軍は、左右から押し寄せた毛利軍の伏兵によって、総崩れに追い込まれたのだった。これ以外にも、元就は臨機応変に出撃して尼子方にダメージを与えていたようだ。

籠城から5ヶ月近くたち、いよいよ事態が動く。
大内氏の援軍が到着し、時を合わせて城外に打って出た毛利軍は尼子軍に大打撃を与え、ついに撤退させることに成功したのだ。
大軍に対して、城の防御力を活かして時間を稼ぎつつ、しばしば積極的に出撃してダメージを与え、援軍を待って後詰決戦に出る。吉田郡山城の戦いは籠城側にとって理想的な展開だったといえる。それを実現させたのが元就の智謀であったことはいうまでもない。

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