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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は②――耐えて状況を動かした城・月山富田城

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出雲の月山富田城(島根県安来市)は壮大な規模を誇る山城である。城の北方と南西方向は窪んで谷になっており、天然の地形による要塞となっている。築城時期は不明だが、鎌倉時代より以降、出雲の守護代が居城として使っていたものであるらしい。
時代が戦国乱世に突入した頃、出雲守護代をつとめてこの城に入っていたのは尼子経久である。彼は一時期守護代の座とともにこの城を追われていたのだが、1486年(文明18年)に奇襲を仕掛けて城を奪回。以後、ここを拠点に勢力を広げ、周防の大内氏と並ぶ中国二強の一角にまで成長する。

しかし、そんな中国地方の二強時代は毛利氏の急成長によって終焉する。
大内氏が内乱を経て倒れた後、尼子氏もまた毛利氏の攻撃によって月山富田城を攻め滅ぼされ(第二次月山富田城の戦い)、降伏に追い込まれる。以後は毛利氏の城となったが、関ヶ原の戦い後に出雲を取り上げられた後は堀尾吉晴が本拠としたものの、やがて放棄されて廃城となる。

この城について注目するのは1543年(天文12年)、「第一次月山富田城の戦い」である。これに先立つ形で尼子氏は毛利氏の吉田郡山城の攻略に失敗、勢いを失いつつあった。また、経久が孫の晴久に家督を譲ったばかりでもある。この隙を突きたい大内義隆は毛利氏らも出陣させ、大軍によって月山富田城を包囲した。
当初は尼子氏から離反する者も出て、明らかに大内軍の勢いのほうが上であった。ところが尼子方は月山富田城に立て籠もってよく戦い、その一方で大内方はなかなか積極的に攻め込もうとしなかったので、事態は長期戦に突入した。この様子を見た周辺国人たちは次々と尼子側に寝返って、情勢が逆転してしまう。

こうして大内軍は撤退に追い込まれたが、追撃を交わしながらの決死の退却となった。さらに脱出の際に大内軍が使った船が沈没して義隆の嫡男が死ぬなど、大内氏にとっては多大な損害となってしまった。長期戦のリスクは必ずしも援軍の襲来ばかりではない、という好例といえるだろう。
しかし、こうして堅く守った尼子氏も、第二次月山富田城の戦いでは毛利氏の前に敗れた。この戦いに際して毛利方は月山富田城の補給路を断って兵糧攻めの構えを取る。今度は国人たちの裏切りのような事件も起きず、1年半に及ぶ籠城戦の末、兵糧が尽きて自殺する兵まで出たこともあり、降伏することになる。
当主の義久は毛利氏に幽閉される生活をすごしたが、その血筋は毛利家臣となった。

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