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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

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大規模な後詰のあてがなくても、攻城側がもう戦えない状況になるまで持ちこたえてしまえば、それは籠城側の勝ちとなる。北条氏の居城・小田原城はその形で二人の大大名の攻撃を撥ね返した天下の名城である。
かつての相模の小田原城、今も神奈川県小田原市に残るこの城の歴史はなかなか古い。1180年(治承4年)に小早川遠平(こばやかわ とおひら)という早川荘の地頭となった武将が築城したのが始まりだといわれている。戦国時代の黎明期、1495年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森氏を攻め滅ぼし、以後小田原城は戦国時代を通じて北条氏の居城となった。

北条氏の時代、小田原城は幾度にもわたって拡張と整備が行われ、その規模は天正年間に最大級に達した。
石垣ではなく土塁と空堀の「土の城」ではあるが、当時としてはまれに見る巨城であり、城下町を丸ごと包みこむ約12キロの大外郭が特徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗を揚げることになるが、戦国時代を代表する城のひとつといえるだろう。

そんな小田原城を襲った危機は三回。この項ではそのうち二回について紹介することにしたい。
まず、1561年(永禄4年)に上杉景虎(謙信)が11万3千ともいう大軍で押し寄せてきた。時の当主、北条氏康は鉄砲や兵糧を集めて籠城の構えをとりつつ、同盟を結んでいた武田氏と今川氏に救援要請を送る。
それを知った景虎は、援軍が到着する前に城を落とそうと城下に火を放って回ったものの、結局諦めることになってしまう。小田原城の堅さに手を焼き、1ヶ月余りにも戦い続けた末、兵糧も士気も心もとなくなっていたからだ。

さらに1569年(永禄12年)、氏康の息子・氏政に代替わりをしていた頃、今度は武田信玄が小田原城を攻めてきた。この頃には情勢が大きく変化しており、北条氏と武田氏の同盟は崩壊していた。そして武田氏と敵対関係になったことに危機感を覚えた北条氏は、上杉氏と和睦を結ぶことでそれに備えたのである。信玄が侵攻してきたのは、北条・上杉同盟が締結されたその年だった。
信玄は北条方の城を次々と攻めながら小田原城に迫り、城の北東に陣を構え攻撃を開始。これに対し、氏政は民衆たちをも動かす態勢を整え、防御を固めた。この時も攻城側の兵力は圧倒的だったが、小田原城の大外郭によって攻撃を阻まれ、結局は謙信の時と同じく落城させることができないまま引き揚げなければならなかったのである。この時の戦いはわずか4日間であり、信玄が「このまま攻めても意味がない」と判断したゆえの撤退であろう。

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