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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

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最初から負けるとわかって、なお籠城戦に挑んだ戦いもある。
関ヶ原の戦いにおいて山城の伏見城(京都市伏見区)をめぐって行われた一幕などは、その典型といえよう。ここからはしばらく、関ヶ原の戦いにまつわる籠城戦をいくつか紹介しよう。

伏見城は豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から指月山に工事を始めた城だ。その2年後には城下町の建設も開始され、城下には大名たちの屋敷が築かれていった。
ところが、この城自体は4年後に大地震で倒壊してしまう。その後、木幡山に場所を移して再建され、豊臣政権の政治拠点となった。

秀吉の死後は一時徳川家康が入ったものの、関ヶ原の戦いで焼失。一度は再建された(大坂城を包囲する城のひとつとしてだったようだ)が、豊臣氏が滅亡すると役割を失い、廃城となる。
そしてこの伏見城こそは、関ヶ原の戦いの序盤の舞台となった場所である。家康が「五大老のひとり、上杉景勝が謀反を企んでいる」として出陣し、大坂を空けると、これを受けて石田三成が挙兵。細川藤孝の丹後田辺城に続き、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。

伏見城はかつて秀吉が築いた堅城であり、地の利にも恵まれていた。わずかな兵で籠もった元忠もよく戦い、約10日間ほどにもわたって籠城戦を繰り広げた。しかし、援軍の来ない状況では、兵力の差がどうにもならない。また第一部でも紹介したように、兵の数に対して城の規模が大きすぎると、むしろ弱点を生み出してしまうものでもあった。
そうしてついに内部から敵方に通じて火を放つ者が現れた。その火が城を包みこむと、包囲軍はそれに合わせて城内になだれ込み、元忠は敵の刃に倒れたのだった。

こうして伏見城は落ちた。しかし、家康が上杉攻めを行ったのはそもそも三成らを暴発させて合戦に持ち込むつもりだったのだという説に則ると、この落城と元忠の死すらも織り込み済みだったのでは、となる。家康が大坂を離れるのが第一の囮、そして伏見城に少数の兵しかいないのが第二の囮だ。
実際、三成らは兵を挙げ、関ヶ原の戦いが起こり、そして家康が勝った。その意味で、伏見城とその守兵たちは立派に役割を果たした、ということになる。

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