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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

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播磨の三木城(兵庫県三木市)は、長享年間(1487~89年)に築かれて以来、播磨の有力豪族である別所氏の居城とされた城である。平山城(丘城)に分類される。
別所長治(べっしょ ながはる)の代に羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで落城し、その後秀吉の家臣である杉原家次(すぎはら いえつぐ)が代官として入る。関ヶ原の戦いののちに、東軍に味方した池田輝政が播磨に入った際、その家老。伊木忠次(いぎ ただつぐ)が三木城主となった。

長治と秀吉の関係は当初は良好だった。秀吉が織田氏の中国方面司令官として播磨に入ってすぐ、彼の味方に付く姿勢を取ったからだ。播磨でも名の知れた別所氏が織田の傘下に入ったことが、秀吉の中国侵攻にとって大きな助けになったのは間違いない。
しかし1578年(天正6年)、秀吉から毛利攻めを先導するよう求められた長治はこれを拒否、毛利方に転じて三木城に籠城してしまう。反旗を翻した理由については、足利将軍に命令されたからとするものや、伯父に言われたからとするものなど、多数の説があって定かではない。

長治の謀反に対して早急に対応するべきと判断した織田信長は、秀吉を三木城攻めに向かわせる。この際、尼子氏の残党が籠もっていた上月城が別所氏に連動して攻めて来た毛利氏に包囲されていたのだが、見捨てられる形になって、そのまま滅亡している。
秀吉は三木城の東北に位置する平井山の本陣に入り、本格的に包囲戦を始めた。やがて摂津の荒木村重もまた謀反して毛利方に転じると、それに呼応して別所方は城から出撃し、平井山に攻め上がってきた。だが、秀吉の弟・秀長の部隊がこれを撃破。さらに別所軍の退路を絶ったために、多くの兵が崖を滑り落ちることになったという。いわゆる「平井山合戦」である。

反撃に出て失敗した別所方は、以降は籠城戦に徹することになる。これに対し、秀吉軍はまず支城や砦の類を徹底的に潰した上で、多数の付城を築いて三木城を包囲しての兵糧攻めの構えをとった。
これに対して別所方は抜け穴などを活用してこっそりと兵糧を運び込もうと画策し、両者の間に裏の掻き合い、騙し合いが発生したようだ。別所方の思惑が次々と潰されたとも、あるいはうまくいって秀吉方が何度も煮え湯を飲まされたともいうが、少なくとも1580年(天正8年)の正月半ばまではもったわけだから、何度かは兵糧の運び込みに成功したのかもしれない。

しかし、結局のところ三木城の兵糧は尽きた。秀吉は支城や砦を落とした際、意図的に敵兵を三木城に逃したというから、それが功を奏した部分もあるだろう。人が増えれば兵糧が減る速度も増えるのは理の当然だ。
草木まですべて食べ尽くした末、ついに長治は開城に追い込まれた。周辺の戦況が織田方へ有利に傾いていたのも、その判断に影響したのだろう。城兵の命と引き換えに別所氏一族は切腹し、これによって播磨は完全に織田方となった。これを称して「三木の干殺し」と呼ぶ。

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