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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

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大軍に押しつぶされ、兵糧攻めに落ちるばかりが落城ではない。クーデターによって乗っ取られてしまった城、というのもある。
織田信長が安土城に移るまでの間居城とし、「天下布武」を進めるための拠とした美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)は、金華山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。
築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。

ところがこの斎藤氏は道三の孫・斎藤龍興(さいとう たつおき)の代に、道三の娘婿にあたる織田信長によって攻め滅ぼされてしまう。信長は稲葉山城に入ると、この城および城下町を古代中国の故事に基づいて「岐阜」と命名した。そこには天下統一に向けての意思が反映されている、という。
信長が安土城に譲った後も、嫡男の信忠がここを拠点として武田氏への押さえをつとめたから、城の価値が失われたわけではない。しかし信長・信忠ともに本能寺の変で死に、信長の孫・織田秀信(おだ ひでのぶ)の代に関ヶ原の戦いの前哨戦で落城。徳川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城は廃城となった。

この稲葉山城をめぐる最も興味深いエピソードといえば、龍興の代に家臣によるクーデターで短期間とはいえ乗っ取られてしまったことだ。
実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎藤氏の家臣で、この事件を起こして主家を離れた後に、秀吉と出会うことになる。

1564年(永禄7年)、半兵衛は主君である龍興を城から追い出すべく、活動を始める。
彼がこのような前代未間の暴挙に及んだのは、好き勝手に振る舞う龍興とその側近たちを諌めたかったのだとも、実は外見を馬鹿にされた私怨だともいうが、実際のところは私憤公憤の入り混じった「日頃の鬱憤が爆発」と考えるのが妥当ではないだろうか。
きっかけとなったのは、稲葉山城に人質として入っていた半兵衛の弟・久作が急病になったことである。ところがこれは偽装であった。弟の見舞いと称して総勢16人の家臣を引き連れて城に入った半兵衛は、見舞いの品と称して持参した長持の中身――武器を取り出すと、城内にいた武将たちを次々と斬り殺してしまった!

しかも、城外には半兵衛の義父で西美濃の有力者である安藤守就(あんどう もりなり)が軍勢を率いて押しかけ、プレッシャーをかける。これではどうしようもないと、龍興は城の外に退去せざるを得なくなったのである。
この後、半兵衛は1年近く稲葉城に入っていたが、龍興と和睦し城を彼に返した。気が済んだのだとも、あるいは美濃全体を乗っ取ってやろうと企んだのだが、周辺国人たち協力が得られなかったので諦めたのだともいう。

この際、信長が「美濃半国を与えるから稲葉山を明け渡せ」と誘いをかけたが、半兵衛は首を縦に振らなかった。案外と、「主君に痛い目をあわせてスッキリした」というのは真実に近いところを突いているのかもしれない。

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