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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城

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信濃の高遠にはもともと諏訪神社の神官の一族である高遠氏がいたが、武田信玄によって攻め滅ぼされた。その後、信玄が秋山信友と山本勘助に命じて1547年(天文16年)に築かせたとされるのが高遠城(兜山城とも。長野県伊那市)である。
三方向を崖と川に囲まれる要害である。城主はしばしば変わり、1581年(天正9年)には信玄の五男である仁科盛信(にしな もりのぶ)が入城した。その翌年、武田氏は織田氏の侵攻によって滅び、高遠城にも織田方の武将が入ったが、本能寺の変後の混乱を経て徳川氏が手中に収めた。江戸時代には譜代大名が入ったため、城主(藩主)はたびたび変わっている。

武田氏を攻め滅ぼしたのは信長の嫡男・信忠の率いる軍勢であった。
しかし、武田方にとって大きな問題になったのは、重臣たちの度重なる裏切りである。もともと織田方が武田攻めに踏み切ったのは信濃の木曽氏が内応したからだ。さらに、美濃方面から攻めて来る信忠に備えて高速城の北方に位置する諏訪に出陣していた武田氏当主・武田勝頼が甲斐に戻ったのは、遠江方面の徳川軍に備えて江尻城を守っていた穴山信君(梅雪)が裏切ったからだ。
結果、高遠城の盛信はほぼ孤立した状態で1万とも3万ともいわれる信忠軍の攻撃に晒されることになる。

信忠は高遠城に降伏を勧める書状を送ったが、盛信はそれを拒否。その返答を受けて織田軍は高速城を包囲し、一気に攻め込んだ。戦いは乱戦となり、信忠は自ら塀の上で指揮をとったという。
城側も織田軍の激しい攻撃に対して奮戦する。武田方の他の城は次々に織田方に下り、高速城は孤立した状態にあったが、その中で盛信らは死に物狂いで戦い続けた。あえて刀を取る女性もいれば、弓で応戦するまだ15、6歳ほどの少年もいたという。

しかし、結局は多勢に無勢だった。いくら高速城が要害でも、この数の差で乱戦に持ちこまれてはどうしようもない。
裏切りによって戦力を削られてしまった時点で、敗北は決まっていたというべきかもしれない。盛信ほか主だった者たちが1日で討ち死にし、高遠城は落城。玉砕という結果に終わってしまったのである。
その報せを受けた勝頼は、抗戦は無理と見て逃亡を図るも、ついに発見されて同じく玉砕。武田氏は滅んだのである。

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