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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

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お市の方にとってその生涯における最期の舞台となった北ノ庄城(福井県福井市)は、彼女の二人目の夫にして織田氏の重臣である柴田勝家が1575年(天正3年)に築いた城だ。
信長は朝倉氏・越前一向一揆を滅ぼした後に勝家を北陸方面の司令官とし、越前を与える。この地方には朝倉氏の居城だった一乗谷城があったが勝家はそこに入らず、新たに北ノ庄へ平城を築いた。信長の安土城に勝るとも劣らぬ壮大な城であったと伝わるが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。

本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。
両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。
この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返したが、そこに追撃の秀吉軍が迫る。北ノ庄城側に援軍のあてはなく、敵から本格的な攻撃が始められ、城に火を放たれると、勝家は自刃を決意。彼はお市の方に逃げるように言うが、彼女はそれを受けれなかった、と伝わる。

かつて最初の夫である長政が自刃した際にも、彼女はともに果てることを望んだが、長政に説得され三人の娘を連れて城から脱出した。
しかし今回、お市の方は頑として揺るがず、娘たちだけを脱出させると自分は勝家とともに城に残った。長政の時は娘がまだ幼かったために、お市の方が付いていてやらなければならなかったが、勝家の時になると娘はもう大きくなっていた。これが、一度目の落城と二度目の落城でお市の方の選択が異なる理由だとされている。

北ノ庄城の中では、勝家とお市の方だけでなく、家臣たちや一族をも含めた集団自決が行われた。お市の方は彼らとともに最後に祝宴を催した後、勝家の手によってこの世を去ったという。

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