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【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

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榎本秋の戦国軍師入門

「厳島の戦い」で大内氏を圧倒した前後から、毛利の矛先は北九州東部にも向いた。当時ここを支配していたのは、九州北西部の龍造寺・南部の島津と並んで九州三強と呼ばれた大友家だ。これ以後、長年にわたって毛利と大友は北九州……それも北九州攻撃に向けて前線基地となる門司城や立花城をめぐり争うことになる。
その中でも特に注目したいのは、1554年(天文23年)に起きた門司城をめぐる攻防戦と、1569年(永禄12年)の「多々良浜の合戦」だ。

まず前者において注目するべきことは、毛利側には小早川隆景(こばやかわ たかかげ)、大友側には立花道雪(当時は戸次鑑連(べっき あきつら)と名乗っていた)という、それぞれ戦国時代を代表する名軍師・知将が参加し、その知略を激しく戦わせていたことだ。
小早川隆景は元就の三男で小早川家に養子として入り、「毛利の両川」として本家を支えた、知将として名高い人物だ。元々水軍に縁の深い小早川家を率いて活躍した。一方の立花道雪は、この後でも述べるが大友家を支えた名軍師として諸国から畏怖された人物だ。この2人が激突したのだから、まさに戦国時代ファン垂涎の戦いと言える。

戦いはまず2万の大軍を率いた小早川隆景が北九州に上陸し、門司城を占領したことから始まる。これに対して道雪もまた2万の軍を率いて速やかに出陣し、両雄が激突する。

この時に道雪は遠征してきた毛利軍を焦らせ、また恐れさせるために、ひとつの奇策を行っている。800人の弓の名手を集め、間断なく矢を撃ち込ませたのだ。しかも、その矢には1本1本「参らせ候戸次伯耆守鑑連(道雪のこと)」と書いてあった。これを毛利勢は大いに恐れ、また道雪の名がさらに広まることにもなった。

こうした策の成果もあって、道雪は一度は門司城を奪還することに成功するが、1558年(永禄元年)に再び奪われる。その後も数年にわたって取ったり取られたりを繰り返した末、大友勢は1561年(永禄4年)にこの城を諦めて撤退せざるを得なくなる。

北九州を巡る大友と毛利の戦いは長らく続いたのだが、その決着がついたのが1569年(永禄12年)の「多々良浜(たたらはま)の合戦」だ。
この戦いは俗に「九州の川中島」などと呼ばれたりもするようだ。大友勢の奮戦によって多くの毛利側勢力が駆逐される中、なんと元就自身が吉川元春(きっかわ もとはる)と小早川隆景の両川を引き連れ、8万2千余という大軍勢で侵攻してきたのだ。

この大軍によってまず小倉城が落ち、続いて立花城も包囲され、激戦の後に開城する。
こうして両軍は多々良浜に対峙し、死闘を繰り広げることになるのだが、この戦いの決着がつく前に別の場所で動きがあった。なんと、留守にしていた中国地方で尼子残党が挙兵したのだ。尼子と大友が手を組むことを恐れた元就はすぐさま兵を戻し、こうして大友軍は北九州より毛利勢力を追放することに成功したのである。

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