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【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

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榎本秋の戦国軍師入門

少数による奇襲で大軍を破るのは、最もドラマチックな戦いのひとつだ。
この「今山(いまやま)の戦い」もまたそうだった。ここでは九州三強のひとつ、龍造寺家の龍造寺隆信を支えた名軍師・鍋島直茂(なべしま なおしげ)が活躍した「今山の戦い」を紹介する。
龍造寺家がじわじわと勢力を拡大していた頃のことだ。1568年(永禄11年)、大友宗麟の3万の大軍が来襲し、絶体絶命の危機に陥る。この時、龍造寺に味方する武将は佐賀城に19将しかいなかった。

誰もが諦めかけた中、直茂は籠城しての徹底抗戦を主張し、ひとりこの場で死のう、と叫んで畳を刀で斬って見せる。これに応じて隆信も、我も汝と同じ、と叫んで立ち上がり畳を斬ったため、諸将も覚悟を決めた。
この時は直茂と諸将による必死の抵抗に、毛利の脅威が近づいているという大友側の事情が重なって和睦となる。交渉の結果、龍造寺から人質を出すという事実上の敗北を意味する状態にはなったが、龍造寺家はどうにか生き延びることができたのだ。

しかし、しばらく後に毛利が兵を退き、さらに龍造寺の人質が大友の元を逃げ出して、事態は再び動き出す。
宗麟は1570年(元亀元年)に6万とも8万ともいう大軍を起こし、今度こそ龍造寺を滅ぼそうと攻めてくる。この時の戦いが「今山の戦い」だ。

多くの者が再び降伏や籠城を提案する中、直茂は夜襲にうって出ようと呼びかける。籠城は援軍のあてがなければ無意味であり、降伏は問題外だというのだ。
これに再び隆信も賛成し、僅か17騎の龍造寺軍は佐賀城を出発した。これほど人数が少なかったのは急な軍議に出席した重臣だけだったからで、移動中に数百騎にまで増えたが、やはり大友の大軍の前には多勢に無勢だ。

一方、勝利を目前とした大友軍は今山という山に陣を敷き、その中腹に本陣を置いて、酒に酔って深い眠りについていた。
そこで直茂は敵を迂回しながら山の頂上まで登り、そこから一気に駆け下りて本陣に雪崩れ込んだのだ。あっという間に大混乱になる中、大友軍の大将・大友親貞(ちかさだ=宗麟の弟とも甥ともいう)が討ち取られ、これが全軍に伝わると同時に総崩れとなってしまう。
直茂、まさに会心の勝利となった。

訓練された兵であっても、やはり油断しているところを夜襲され、また本陣が潰されてしまうと脆いのは変わらないのがこの戦いからよくわかる。そして、そこを的確に突くために味方をまとめることができるのが、名将・名軍師の証なのだ。

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