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【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

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榎本秋の戦国軍師入門

山本勘助(やまもと かんすけ)といえば、武田信玄の軍師として、また「第4次川中島の戦い」での「啄木鳥作戦」の提案者として、非常に有名な人物だ。ところが彼は実在したかどうかが大変に疑われていた人物でもある。

彼の存在は主に、江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡景憲(おばた かげのり)が書いたとされる『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』という軍学書に記されていたのだが、他の信頼できる資料には彼の名前が長らく発見されていなかった。
近年になってついに彼の名前が記載された資料が見つかったのだが、すると今度はその資料の「山本勘助」が『甲陽軍鑑』に書かれていたような信玄の軍師だったのか、それともあくまで伝令将校的な役割の人物にすぎなかったのか、とまた意見が分かれてしまった。

このように存在自体が謎に満ちている勘助は、生まれについてもよくわかっていない。
長じると諸国を放浪して剣術や軍学などを学び、その後に築城術、つまり城の建築や城攻めの技術をかわれて信玄に仕える。外見としては、片目と足が不自由で風来の上がらない男だったという。

『甲陽軍鑑』には、勘助が出陣した戦いとして3つの合戦が挙げられている。「碓氷峠の戦い」、「戸石合戦(砥石合戦とも)」、そして「第4次川中島の戦い」だ。この他に「上田原の戦い」でも策を講じて勝利に貢献したとされているが、この時出陣したかどうかはさだかではない。

まず、現在の群馬県と長野県の狭間の峠で行われた「碓氷峠の戦い」。
これは勘助の名前が初めて登場する合戦だ。ところがこの戦いにおいて勘助がどのような働きをしたのかについては一切書かれていない。それどころかこの合戦自体が、他の信頼できる資料ではまったく確認のできない、「幻の合戦」なのだ。
「幻の軍師」山本勘助が初めて登場する戦いもまた幻だった、というのは少々話ができすぎだろうか。

一方、「戸石合戦」は実在した戦いだ。それどころか、この戦いは信玄にとって大きな意味を持つものだった。なぜなら、この合戦で武田軍は大敗を喫し、それが「戸石崩れ」という言葉になって残るほどだったのだ。
そして、その大敗を最後のところで救ったのが山本勘助だった。

その頃、信玄は信濃(現在の長野県)の村上義清と戦っていた。そこで1550年(天文19年)に村上側の戸石城を攻めていたのだが、この城は東西が崖に囲まれていて攻めづらく、1カ月戦っても落ちなかったために撤退することになった。
撤退戦こそが古来最も難しい戦いと言われているとおり、ここで信玄は散々に敗れてしまう。

しかし、ここで立ち上がったものがいる。もちろん、勘助だ。
彼は小勢を率いて出撃すると村上軍を引きつけて誘導し、その隙に他の武田軍の態勢を立て直させた。さらに本隊が攻撃を仕掛けている間にそれぞれの部隊に赴いて士気を上げ、どうにか勢いを盛り返すことに成功する。

この後、『甲陽軍鑑』には苦戦しながら戦場を確保し、勝ち鬨を上げた……とあるが、おそらくこれは誇張で、実際には過酷な撤退戦の中でもどうにか陣構えを整えて退くことができた、ということだろう。

勘助の最大の見せ場であり、最後の戦いとなるのが「第4次川中島の戦い」だ。一般的にはただ「川中島の戦い」と呼ばれているが、実際には武田信玄と上杉謙信は何度も千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)とが合流する三角地帯・信濃の川中島で戦っており、そのうち「啄木鳥(きつつき)作戦」や信玄と謙信の一騎打ちで有名なのが1561年(永禄4年)に行われた「第4次川中島の戦い」だ。

この時謙信は妻女山(さいじょさん)に籠もり、信玄は海津城に入った。この時、勘助が考案したのが「啄木鳥作戦」だ。
彼は2万の軍勢のうち1万3千に妻女山の上杉軍を攻めさせれば、勝敗にかかわらず敵は山を下りて川を越えるだろうから、そこを8千の軍勢で攻めればよい、と信玄に提案した。啄木鳥が木を突くように、上杉軍を山から突き落とそうと考えたのだ。

ところが、この策は謙信によって完全に見破られていた。
彼は夜のうちに山を下りて川を下っていたため、翌朝に信玄の率いる8千の軍勢と謙信の軍勢が激突する。この戦いは上杉軍有利で進み、責任を感じた勘助は敵軍に突撃して奮戦するも討ち取られてしまう。
しかし、そこにようやく武田の別働隊が間に合って上杉軍を挟撃したために謙信は軍を退き、ここに「第4次川中島の戦い」は終結する。

信玄の軍師として活躍し、川中島に散った勘助はどのようなタイプの軍師であったのか……といえば、これもやはり謎に包まれている。ある説では易や風水、陰陽道といったオカルトな部分に通じ、いわゆる「軍配者」と呼ばれる古いタイプの軍師であったという。
またある説では、築城術のエキスパートとして信玄にその腕をかわれた、様々に策を講じる「参謀的軍師」の走りであった、とされている。

この時代、築城に長けている武将は同時に城攻めにも長けていることを示していたため、勘助のような人物は大いに重宝されたのだ。実際、彼については、諏訪郡の城郭の建設(ただし、この件は創作)や信濃海津城攻めなどで活躍し、その極意を同僚たちに伝えたという逸話がある。
名前だけは大変に有名なのに、実際にどういう人物だったのかはハッキリとせず、またその業績についても本当だったのかよくわからない。まさに勘助こそは謎の軍師、なのだ。

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