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【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

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榎本秋の戦国軍師入門

朝倉氏といえば室町以来の名門武家で、戦国時代には越前国(現在の福井県の一部)守護として大きな勢力を持っていた。
もともと越前守護は斯波氏という、尾張守護も兼ねる名門武家だったのだが、内紛の隙を突かれて守護代(守護の仕事を代行する役割)の朝倉氏に国を奪われてしまった。ちなみに、その後尾張国もそこの守護代の家系である織田氏によって実質的に奪われ、斯波氏は滅亡してしまう。

朝倉の名は信長のライバルのひとり、義景の名前でよく知られている。そんな朝倉家の重鎮として活躍したのが彼、朝倉教景(あさくら のりかげ)だ。のちに出家して宗滴(そうてき)を名乗り、こちらの名前の方が有名になった。

朝倉孝景(あさくら たかかげ)の八男として生まれた彼が活躍するのは、兄・氏景(うじかげ)の子で甥の貞景(さだかげ)が当主を務めていた時代からだ。
彼の父である朝倉孝景は「朝倉孝景条々」という17箇条にわたる分国法を作ったことで知られる。その内容は実力主義の奨励や、本拠地以外に城を造ってはならない、などというものだった。

教景の最初の活躍として知られているのは、兄の景総(かげふさ)がその娘婿の景豊(かげとよ)と共に反乱を起こした事件だ。教景は当初この反乱に誘われるが、これを断って竜興寺という寺で出家してしまう。さらに貞景にこの件を密告すると、自ら軍勢を率いて景豊を攻める。これに敗北した景豊は自刃して果て、景総は逃亡してしまう。
この時の恩賞として敦賀郡を委ねられた彼は、以後朝倉家三代(貞景、孝景、義景)に仕え、軍事面を取りしきる名軍師として、また比類ない忠臣として活躍していくことになる。

彼の最大の活躍は以前紹介した1506年(永正3年)の「九頭竜川大会戦」での勝利だったが、一向一揆勢との戦いのあとも、教景の活躍は続く。丹後(現在の京都府北部)に出陣して武田氏を救援し、近江(現在の滋賀)小谷へ出陣して六角氏と浅井氏の間を調停し、また当時の将軍・足利義晴の要請に従って上京し戦ったこともある。
特に浅井氏とは関係が深くなり、朝倉家と浅井家は同盟を結ぶに至る。この関係がのちに浅井長政の信長に対する裏切りへとつながっていくわけだ。

しかし、1555年(天文24年)に一向一揆が再び蜂起すると、上杉謙信と協力して再び出陣し、連戦連勝で一揆勢数千を討伐するも陣中で病に倒れる。どうにか本拠地の一乗谷に戻るが結局快復することはなく、ついに死去するのだった。この時に朝倉家は義景の時代だったが、結局朝倉家そのものも、義景の代で滅びてしまう。

朝倉を滅亡させたのは織田信長だが、ある伝承には教景が臨終の床で信長のその後の活躍を予言した、とある。
おそらく後に朝倉が織田に滅ぼされたことから創作された話なのだろうが、逆に言えば彼はそのくらい先見の明がある人物と見られていたのだ。

教景について語る上で欠かせないのが、『朝倉宗滴話記(あさくらそうてきわき)』という書物の存在だ。これは家臣の萩原八郎右衛門尉宗俊(はぎわら はちろうえもんのじょう むねとし)という人物が彼の語ったことをまとめたもので、30年以上にわたる主君の補佐と戦場での経験で得たノウハウが綴られている。

この中には「人間は蓄えがなくては駄目だが、使う時には使うべきだ」「家臣に慕われるように心がけよ」「常に適材適所に配置せよ」といった事柄が書かれているのだが、中でも特徴的なのが次の一文だ。
「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」……つまり、犬畜生と蔑まれても、武将にとっては勝つことこそが一番大事ということを彼は言っている。79年という長い生涯を、綺麗事ではやっていけない戦場で過ごした名将らしい言葉ではないだろうか。

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