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【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

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榎本秋の戦国軍師入門

豊臣秀吉の軍師といえば、まず誰を連想するだろうか? 病に倒れた竹中半兵衛と野心を秘めた黒田官兵衛の「両兵衛」が最も有名だが、ちょっと渋好みの人だったら主に内政面を担当して兄を支えた豊臣秀長(とよとみ の ひでなが) を挙げるかもしれない。
しかし、秀吉を支えた家臣団の中にはもうひとり、軍師的な役割を担った重要な人物がいる。彼の名は蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)。蜂須賀小六、という名前の方が通りがいいだろうか。

彼は尾張国(現在の愛知県西部)海東郡は蜂須賀村の出身で、木曾川筋を支配する小豪族、土豪の首領だった。小説などでは野盗の親分として書かれることもあるが、これは否定されている。
美濃の斎藤道三を始めとして幾つかの主に仕えた後、織田信長に仕える。「桶狭間の戦い」にも参加し、戦功を上げていた。墨俣一夜城のために秀吉が正勝に会いに行く……というのは後世の創作である。
また、同じように少年時代の秀吉(日吉丸)を矢作橋(やはぎばし)で助けたという逸話も、その当時には矢作橋がないために創作であったと考えられる。この頃は橋が架かっておらず、渡し舟によって人々は行き来をしていたのだ。

1567年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)のこととも)、以後大きな戦いにはことごとく参加して活躍する。1570年(元亀元年)の越前出兵とそれに続く金ヶ崎撤退戦、そして「姉川の戦い」、1573年(天正元年)の小谷城攻め、1574年(天正2年)の伊勢長嶋一向一揆討伐、1578年(天正6年)からの中国地方攻め、そして1582年(天正10年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。

また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。
そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以上に多いのが外交折衝での活躍だった。

秀吉は降伏した相手は無闇に殺さなかった武将として名高いのだが、実はそうした評判を作るのに大いに貢献したのが彼、蜂須賀正勝だ。特に中国方面を攻略していた際に城の引き渡し交渉で活躍し、多くの城を無駄な血を流さずに味方のものとした。
また、信長が本能寺で倒れた際、秀吉は毛利家の高松城を攻めていたのだが、この時に毛利との停戦交渉を黒田官兵衛らと共に行ったのが正勝だった。天下を摑む寸前まで行った信長が死んだ以上、こんなところで毛利と戦っている暇はない。

秀吉が天下を望むならなんとしても信長の後継者の座を得る必要があったし、そうでなくても総大将が死んだことを知ったら、毛利軍はかさにかかって攻めてくるに決まっている。
つまり、この講和はなんとしてでも成立させなければいけなかったものであり、それを任せられた正勝がどれだけ信頼されていたかがよくわかる。一方で毛利家中としても内輪の事情からこれ以上戦いを続けるわけにはいかず、正勝らはそういった点を上手く刺激し、頭を駆使して交渉を成功させたのだ。

正勝は秀吉が信長の後継者の座を摑んだ後も彼のために働き、四国征伐で活躍する。
この時に彼は病を患っていたのだが、それを押して長宗我部元親を説得し、彼を降伏させることに成功する。外交折衝の達人は病の中でも健在だったのだ。

その活躍を喜んだ秀吉は1585年(天正13年)、正勝に阿波(現在の徳島県)の国を与えるのだが、なんと彼はこれを辞退して子の蜂須賀家政に譲ってしまう。
理由としては、彼自身が恩賞をもらうことよりも秀吉の下で様々に働くことを喜んでいたのだとも、この頃すでに病んでいた(翌年病没している)ことから自分の死期を悟っていたのだ、ともいろいろに考えることができる。

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