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【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

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榎本秋の戦国軍師入門

豊臣秀吉の「両兵衛」と言えば、彼の両腕として活躍した軍師として大変に有名だ。
その一方、黒田官兵衛には外交折衝や謀略などで活躍しているイメージがあり、もうひとりの竹中半兵衛は痩せ形で長身、優しい顔立ちといった外見や、病で死んだことなどもあって知性派の策士、というイメージがある(もちろんこれはフィクションで積み上げられたイメージであるわけだが)。

半兵衛は幼少の頃から武芸よりも学問や読書を好んで兵法書にも通じ、長じては秀吉の軍師として活躍する。
その知略は様々な古代の英雄にたとえられ、張亮(古代中国の王朝・前漢を建国した劉邦を支えた軍師)や諸葛亮(同じく古代中国の三国時代に活躍した軍師)に匹敵するとも、また「昔楠木、今竹中」(楠木とは楠木正成のことで南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて少数で多数を翻弄した軍師)とも讃えられた。

一般的に知られている「半兵衛」は通称で、本当の名前は重治(しげはる)という。斎藤家に仕える美濃の武士・竹中重元(しげちか)の子だ。
しかし、斎藤道三をその子・義龍(よしたつ)が殺した際、重元は道三についた。これもあってか、父の死後に斎藤家に仕えるようになった彼は、義龍の急死後に斎藤家を継いだ子の龍興(たつおき)に随分冷遇されたようだ。

そこで半兵衛がやってのけたのが、少数で稲葉山城を乗っ取って見せるという離れ業だった。
これによって半兵衛の名は大いに高まった。その後、彼は浅井家のとある家臣を頼って隠居し、稲葉山乗っ取りの話を聞いて出仕を求めてきた信長の誘いも断る。

そんな彼を信長の部下の木下藤吉郎(後の秀吉)が口説き落とし、臣下としたのもやはりすでに述べたとおりだ。
秀吉はまず自分も浪人のふりをして「ともに信長に仕えよう」と誘い、これを見破られても合計で三度も訪問して粘り強く説得する。
そしてついに三度目、半兵衛が「信長ではなくあなたの軍師になろう」と答えた……というのが物語などで伝えられる「木下藤吉郎三顧の礼」のいきさつだ。ただ、これは『三国志』における劉備と諸葛亮の三顧の礼をモチーフにした創作と思われる。

その後、半兵衛は秀吉の軍師として、「姉川の戦い」を始めとする浅井・朝倉との長い戦いや、中国地方への侵攻などで活躍する。この間の出来事として様々な逸話が現代に残っている。

例えば、「姉川の戦い」の時のことだ。近江の国の姉川で両軍が対峙した時、浅井・朝倉の連合軍に対して、織田軍は大きく横に広がった鶴翼の陣を敷いた。しかし、これでは敵の突撃に耐えられず信長のいる本陣を攻められてしまうと考えた半兵衛は、秀吉の部隊の布陣を変えさせる。まず前面に騎馬部隊の半分ほどを展開させてもう半分に円陣を組ませ、さらに槍を持った歩兵を四方に配置させたのだ。この布陣は浅井軍の攻撃によく耐え、勝利に貢献した。

また、その2年後に浅井の居城・小谷城を攻めた時、浅井家当主・長政の妻となっていた信長の妹お市とその娘たちを秀吉が救ったことはよく知られているが、これを進言したのが半兵衛だった。この時半兵衛は、長政よりまず先にその父久政を攻め、長政自身が家族のことを考えられるような状況を作り出したのだ。
これらの物語の多くが、半兵衛の冷静な観察力や、調略や交渉によって戦わずに敵を降す知略の冴えを伝えている。

合戦以外でも半兵衛の逸話は色々と残っている。
半兵衛は信長の居城・安土城の建築にも関わっていたが、ある時にちょっとした問題が生じた。蛇石という大きな石を山に引き上げる必要があったのだが、あまりに大きくてなかなか持ち上がらない。
そこで半兵衛が「軍に詭道(騙し)有りというように、この石を引き上げるのにも詭道をもってすれば上手くいくでしょう」と言って、直線ではなく山肌を回るように道を造らせた。するとさしもの大石もなんなく運ぶことができたのだ。

こうした彼の冷静さや視野の広さは、「高価な馬を持っているとそれが惜しくなってしまって十分な戦働きができないから、いざという時には乗り捨てられるような馬がよい」といった発言に見て取ることができる。他にも、座っている時にいつでも足の指を動かしたり、寒い時でも懐に手を入れずに摺り合わせて温めて、咄嗟の時に動けるように気をつけていた、といった振る舞いもその印象を強める。

もうひとりの「両兵衛」黒田官兵衛に関係する話もある。
官兵衛が1年にわたって捕らえられていた時、信長は彼の子を殺すように指示しているが、半兵衛が独断で隠して保護した。のちに官兵衛が救出された時にこのことが明かされ、信長もこれは咎めなかった。そもそも官兵衛を秀吉に推薦したのが彼だったともいうのだが、これはどうも事実ではないようだ。

また、半兵衛と官兵衛にまつわる話としてはもうひとつ、こんなものがある。ある時、官兵衛が「秀吉公は領地を増やしてくれると言ったのにまだ約束を果たしてくれない」と言って、そのことが書かれた奉書(書き付け、手紙)を半兵衛に見せた。すると半兵衛はこれを引き裂いた上に火中に投じ、怒る官兵衛に「このようなものをあてにするから、恨みや不満が出てくるのだ。それでは本当の奉公にならないので、このようなものをあてにする心を捨てなさい」と説いたという。半兵衛と官兵衛それぞれの人となりが何となくわかる逸話ではなかろうか。

そんな半兵衛は、最後まで知略でもって秀吉を支え続けた。
中国攻めの際、すでに病を患っていた彼は三木城攻めの時、療養のために京に戻されていた。しかし、はかどらない戦の状況を聞くと舞い戻り、力押しでは落ちないこの城を兵糧攻めするように進言すると、陣中で病没する。
この時に戻ってきた理由を問う秀吉に対して彼は「陣中で死にたかっただけ」と答え、秀吉は彼の死体に取りすがって大いに泣いたのだった。

まだ36歳という当時からしても早い死であり、「その後彼が生きていればどれだけのことをしたのだろう」という痛惜の念が、後世の様々な創作につながったのであろう。

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