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【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

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榎本秋の戦国軍師入門

本連載で繰り返し触れてきたが、戦国時代の九州には三強と呼ばれる強力な戦国大名が存在した。角隈石宗(つのくま せきそう)や立花道雪(たちばな どうせつ)が仕えた大友家、秀吉の九州征伐に頑強に抵抗した島津家、そして龍造寺(りゅうぞうじ)家だ。
龍造寺家は隆信(たかのぶ)が当主の頃に全盛期を迎え、肥前(現在の佐賀県及び長崎県の一部)・肥後(現在の熊本県)・筑後(現在の福岡県南部)・豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)に勢力を伸ばした。そして、その隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま なおしげ)なのだ。

直茂は龍造寺家家臣の鍋島清房(なべしま きよふさ)の息子として生まれる。
隆信の従兄の関係にあった彼は、ある人物に見出されて隆信の側近として仕えることになる。それは隆信の母の慶誾尼(けいぎんに)だった。彼女は息子を補佐するべき人材を捜した末に直茂に目を付けるのだが、そこで驚くべき手段を取る。
なんと彼女は自分も清房も共に連れ合いを失っていたのをいいことに、清房に強引に嫁入りをしてしまったのだ。隆信と直茂の関係をさらに近づけ、絶対に信頼できる側近としたかったがための、一途な企みであった。ちなみにこの時、慶誾尼は48歳であったとか。

実際、彼女の見込みは正しかった。直茂は隆信をよく支えて名軍師と呼ばれるようになった。
まず、1558年(弘治4年)に佐賀の八戸宗暘(やえ むねてる)の謀反を見破って城を攻め、火攻めによってこれを破る。その後、1568年(永禄11年)に大友勢の攻撃によって窮地に陥るもこれを切り抜け、さらに1570年(元亀元年)の「今山の戦い(いまやまのたたかい)」で大勝利をあげる。

その後も直茂は活躍を続けて龍造寺の勢力を広げ、また一方で秀吉に接近してもいる。
だがこの頃から隆信には驕りが見られるようになり、人心が彼から離れていくようになる。さらに直茂がこれを諫めると彼を疎み、遠ざけてしまうのだ。

そして肥前島原の有馬晴信(ありま はるのぶ)が島津家に内応するようになると、隆信はこれに怒って兵を挙げる。しかし、大軍をもって有馬を滅ぼし、さらに島津をも攻めようとした隆信の野望は頓挫する。
「沖田畷の戦い」において、撤退する敵を追った龍造寺軍は島津の鉄砲隊の待ち伏せにあって大敗し、隆信も戦死してしまうのだ。

九州の一大勢力にまでのし上がった龍造寺家は、こうして再び逆境に立たされることになる。
しかし直茂はまず隆信の子・政家(まさいえ)を、続いて秀吉の命により政家が隠居させられるとその子・高房(たかふさ)を、それぞれ主君として立てて、実際の政治は自分が取りしきっていく。一応の身分としては後見人であり、「高房(当時5歳)が成人するまで」という条件で政治を行うことになっていた。

こうして直茂が龍造寺家を取りまとめていくうちに、家中の空気は自然と彼を主として扱っていくようになる。
世相は秀吉の時代を経て家康の時代に至る、最後の戦乱の時代であった。龍造寺家は文禄・慶長の役で朝鮮へも出兵したが、そのためには誰かの下でまとまらなければ戦っていけない。
さらには「関ヶ原の戦い」で一度西軍につきながらも、東軍に寝返ることによって領地を守れたという事情もあった。そして何よりも龍造寺家の当主が政家・高房と二代続いて非常に凡庸な人物であったということが決定的だった。

結果として、高房が成人しても直茂は実権を返さず、本来直茂の上、もしくは同格にいたはずの龍造寺の一族たちもそのことを認めた。これに絶望した高房は自殺してしまい、ついに直茂が龍造寺の家督を継承し、ここから佐賀鍋島藩の歴史が始まる。
以上のように、直茂はごく平和裏に下克上を遂げており、戦国時代においては大変珍しい武将だが、そんな彼のことをよく表している逸話がある。

豊臣秀吉が天下人だった頃の話だ。直江兼続の項でも触れるが、秀吉は各大名家の優秀な武将を愛し、「豊臣」姓を与えて懐柔しようとした。
直茂も兼続らと同じように秀吉に気にいられ、豊臣姓をもらったのだが、秀吉なりに彼らについては言いたいこともあったようで、ある時こんなことを言った。「天下を取るためには大気・勇気・知恵が必要だが、この3つを兼ね備えたものはいない。ふたつを持つ者はいるが、上杉の直江兼続には知恵がなく、毛利の小早川には勇気がなく、龍造寺の鍋島直茂には大気がない」、と。まさに大気(野心)がないがために、隆信の死後にすぐに国を乗っ取るようなことがなく、また西軍についたにもかかわらず家を残すことができたのだ。

ただ、いくら流血の少ない平和な下克上であったとしても、やはり鍋島が龍造寺を乗っ取ってしまったという事実は消えないから、高房の自殺のほかにも当然様々な問題があった。それは龍造寺派と鍋島派の対立という形で現れたのだが、そこから派生したもののひとつが、怪談「鍋島化け猫騒動」だ。

これは直茂の子・勝茂の時代に起きたとされる騒動で、勝茂が些細なことから手打ちにした家臣とその母の怨念が飼い猫に宿り、化け猫となって崇りをもたらしたというものだ。
勝茂はそれによって病に倒れ、他にも様々な崇りが起きたのだが、結局家臣によって退治されたとこの話は語っている。

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