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【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

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榎本秋の戦国軍師入門

角隈石宗(つのくま せきそう)は占いによって合戦の吉凶を占うタイプの軍師だったが、大友家にはもうひとり高名な軍師がいた。彼は石宗の弟子だったが、軍師としては兵を動かし策略を練るタイプだった。部下の心を掴んでその実力を引き出すことが上手く、当時の大友家当主・大友宗麟(出家後の名前。その前は大友義鎮)を支えて大いに活躍する。
その名は立花道雪(たちばな どうせつ)。しかし、これは名門立花家の門跡を継いで、さらに出家した後の名前で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。

彼はその生涯において九州各地を転戦し、様々な戦いを繰り広げているが、その姿は実に特徴的なものだった。道雪は馬ではなく輿(こし)に乗って戦場を往来したのだ。これについてはひとつのエピソードが伝えられている。

それはとある夏の日のこと、道雪は急に降り出した雨を避けて大樹の下で雨宿りをしていた。
この時、突然雷鳴が轟いて彼の身体を稲妻が撃つ。しかし、道雪はとっさに愛刀・千鳥を抜き放つと、稲妻の中にいた雷神を斬った、という。この時の後遺症で、以後輿での移動を余儀なくされたが、一命をとりとめただけでも奇跡であった。彼は以後この刀を「雷切(らいきり)」と名付け、常に離さなかったと伝わっている。

とまあ、これはあくまで言い伝えであり、多分に創作も入っているだろうが、道雪が落雷により生涯下半身不随の身となったことは広く知られている。
また、道雪の部下たちは彼を雷神の生まれ変わりと信じて雄々しく戦い、一方でその敵となった者たちは「鬼道雪」と呼んで恐れた。ただ、雷を受けたのがいつ頃の時期のことであるのかは、若い頃であるともまた老境に入ってからともされ、ハッキリしていない。

道雪の最初の活躍は14歳、まだ元服前で孫次郎と呼ばれていた時のことだ。1526年(大永6年)、周防(現在の山口県の東南半)の大内義隆(おおうち よしたか)が兵を起こし、豊後(現在の大分県の北部以外)に攻め寄せてきた。
大友義鑑(おおとも よしあき。宗麟の父)はこの報を聞くやすぐに道雪の父・戸次親家(べっき ちかいえ)に出撃を命じる。ところがこの時彼は病床に伏せっており、とても戦に出られるような状況ではなかった。

そこで父の代役として出陣したのが道雪だ。鎧を纏って颯爽と馬を駆る彼は大内軍が想像もしない速度で軍を展開させ、馬ヶ岳城に籠もっていた敵を攻撃して大いに打ち破る。
この戦いは結局大友側に有利な条件での講和となり、恐るべき若武者の名を諸国に喧伝することになったのだ。

その後も道雪の活躍は続く。大内家との戦いがしばらく続いた後、1535年(天文4年)には肥後の小勢力たちが連合して起こした反乱を制圧しに向かうが、その途中で待ち伏せを受けて苦戦する。
ところが道雪は駆け付けた援軍を敢えて待機させ、自分の戦力だけでこの逆境をはね除けて勝利してしまう。

また、大友義鑑が相続を巡る争いで殺された際(大友館の二階で殺されたことから「大友の二階崩れ」や「二階崩れの変(にかいくずれのへん)」と呼ばれる)には嫡男の宗麟派について、異母弟・塩市丸(しおいちまる)の派閥を粛清するのに一役かってもいる。
さらに毛利家が「厳島の戦い」で大内家に勝利した後は、毛利と長く戦い続ける。この争いは最終的に、1569年(永禄12年)の「多々良浜(たたらはま)の合戦」で死闘を繰り広げた後、毛利がかつて中国地方に大きな勢力を持った尼子家の残党の反乱を鎮圧するために兵を戻したことで決着するのだった。

こうして道雪が大いに活躍していた時代は、同時に大友家の最盛期でもあった。領地も拡大し、また南蛮船や明(当時の中国の王朝)船が盛んに来航するようになったことから、経済的に富むようにもなった。
しかし、そのせいか一時期少し困ったことになってしまう。宗麟が酒と女に溺れて政治を疎かにし始めたのだ。

このことを重く見た道雪は何度か主君を諫めるが、なかなか聞いてもらえない。
そこで彼は一計を案じる。なんと、自分自身が毎夜酒宴を開いて酒に溺れたふりを始めたのだ。一説によるとこの時に京一番の白拍子(女性の踊り子のこと)まで呼んだという。

この噂を聞いた宗麟は「あの堅物の道雪がそんなことをするとは珍しい」と見物に出かけ、道雪はそこをつかまえて懇々と酒色に溺れることの害を説く。これにはさすがの宗麟も堪えたのか、そうした振る舞いを抑えるようになった。
その後、宗麟は出家し、道雪もまたそれに従う。さらに「多々良浜の合戦」で毛利家を九州から追い払うと立花城に入り、廃絶していた大友一門の名門・立花家を継いで、その後は立花道雪と名乗るようになる。

立花城主となった道雪は、城の普請や農民をまとめて準武士組織を作るなど毛利の再侵攻に対して備えを固めた。しかし、そうして一国の重臣として働く彼にはひとつ問題があった。男子を授かることがなかったのだ。
そこで道雪は驚くべき行動に出る。なんと、立花城主の座を娘の誾千代(ぎんちよ)に譲ってしまうのだ。のちに立花宗茂を誾千代の婿に貰い、彼が立花家を改めて継ぐことにはなるのだが、これは女性蔑視の風習が非常に根強い当時からすれば、破格に型破りなことだった。

その後、すでに述べたように1578年(天正6年)の「耳川の戦い」の敗北によって大友家が衰退の一路を辿るようになると、各地を転戦してその衰退を少しでも抑えようとする。しかしその最中の1585年(天正13年)、陣中にて病没する。
大友のために生涯をかけて戦に生きた名軍師の死だった。

遺言として道雪は自分の遺体に鎧を乗せて埋めよと命じるが、それはあまりにも忍びないと考えた宗茂の意見によって立花城に運ばれた。
その棺は敵対していた勢力の目にも触れるが、それが道雪のものと知ると誰も邪魔をしようとはしなかったのである。

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