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【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

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榎本秋の戦国軍師入門

「秀吉の両兵衛」と呼ばれた2人の名軍師のうち、竹中半兵衛は病によって若くして倒れたために秀吉に惜しまれた。
一方、もうひとりの黒田官兵衛も調略や外交折衝を得意とし、秀吉の天下取りに大いに貢献したのだが、彼はその才知の鋭さと野心ゆえに秀吉に警戒され、晩年は不遇だった。
半兵衛と同じように官兵衛という名前も通称で、本当の名前は孝高(よしたか。何度か名乗りを変えている)だが、こちらの通称、もしくは出家後の如水(じょすい)という名前の方が有名だ。

播磨(現在の兵庫県南西部)の小大名・小寺政職(こでら まさもと)に仕え姫路城代を務める黒田職隆(くろだ もとたか)の子として生まれ、その地位を継いだ。政職は黒田家を重臣として厚遇し、小寺の姓を名乗らせていた。
秀吉との縁ができるのは、織田家が勢力を拡大して中国地方への進出をうかがい始めた頃だ。この頃、中国地方には毛利家が一大勢力を築いており、多くの小大名たちが毛利につくか織田につくかの選択を強いられた。

そんな中、官兵衛は家中の意見をまとめると小寺家の代表として1575年(天正3年)に信長に接触し、播磨への進出にあたって先導役を務めたい、と申し出る。信長は官兵衛の才能を見抜くと大いに喜び、中国方面の指揮をとる秀吉に協力するように命じた。

以後、官兵衛は秀吉に力を貸すことになる。
中国地方に不案内な秀吉にとって、官兵衛の存在は案内役として不可欠だった。しかも彼は秀吉の拠点として自分の姫路城を提供し、さらに周辺の小大名たちを次々と織田に従うよう説得していく。

こうして順調に進んだ中国侵攻だが、1578年(天正6年)にアクシデントが起きる。摂津(現在の大阪府の一部と兵庫県の一部)を任されていた重臣の荒木村重(あらき むらしげ)が、官兵衛の主の小寺家なども巻き込んで信長に対して反乱を起こしたのだ。説得に向かった官兵衛は土牢(つちろう)に監禁されてしまう。この反乱は1年続き、その間ずっと投獄されていた彼は髪の毛が抜け、さらに足の関節を悪くして上手く歩けなくなってしまった。

さらに不運なことに、信長は、官兵衛がこんなにも長く戻ってこないのは裏切ったせいだと思いこみ、息子の長政を殺すように命じてしまう。
結局、1年後に荒木村重の反乱は鎮圧され、官兵衛は救出される。しかも、長政は半兵衛がこっそりとかくまっていたことがわかり、無事官兵衛の元に戻された。

反乱鎮圧により、織田家に反旗を翻していた小寺家も攻め滅ぼされ、官兵衛は織田家家臣として本来の名字である黒田を名乗り、播磨に1万石を与えられる。
以後は秀吉の軍師として再び中国侵攻に協力するのだが、その運命が大きく変わる瞬間が訪れる。それは1582年(天正10年)に備中高松城を水攻めにしているときのことだった。

秀吉の陣に駆け込んだ急使は明智光秀の謀反と織田信長の死……「本能寺の変」を告げる。秀吉はこの報告に激しく驚き、ただ泣くことしかできない。しかし、ここで冷静に進言した者がいる。誰あろう、官兵衛だった。

彼は「今こそ天下取りの好機ではないか」と秀吉に告げた。その言葉に我に返った秀吉はすぐに毛利家との講和の手はずを取り、のちに「中国大返し」と呼ばれる神速の速度をもって帰還する。
その後の歴史の流れを見るに、まさにこの瞬間こそが織田家家臣の秀吉ではない、天下人・豊臣秀吉の出発だったといえよう。

もちろん官兵衛は毛利家との講和にも大きな役割を果たし、さらにのちの四国征伐・九州征伐・小田原城攻めといった大きな戦いでも諸勢力の説得や敵方武将の調略などで活躍する。
ところがこうした功績ゆえにかえって秀吉は官兵衛を警戒するようになり、小田原の北条攻めが終わると政治の中心から外されてしまうのだ。

この警戒の原点は、どうも「本能寺の変」の際のあの一言にあったようだ。
主君が謀反にあって殺された場合は秀吉のように悲嘆にくれる方が普通であり、官兵衛のように冷静にその後のことを考えられる者は貴重だが、同時に油断のならない、いつ自分に逆らうかわからない人物と考えたのだ。

こうして、秀吉の側近としての地位を文官の石田三成らに取って代わられた彼は出家して隠居する。
隠居していた頃の彼はしばしば城下を散歩し、子供に出会うとお菓子をあげたり、家来の家に上がり込んで世間話をしたりと、のんびりとした日々を過ごしていた。子供たちはそんな彼によく懐き、しばしば彼の隠居所に遊びに行って大騒ぎをして、官兵衛はそんな彼らを微笑ましく見つめていたという。

けれど、その胸にはまだ野心の炎が残っていた。そんな彼が最後のチャンスとして賭に出たのが「関ヶ原の戦い」の際に九州で起こした戦なのだが、あまりにも早く終わった関ヶ原の決戦のためにその野心が実らなかった。
この時の無念は最後まで残ったようで、遺言として長政にそのことを悔やみ、臨終を迎えた、という。

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