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【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

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榎本秋の戦国軍師入門

軍神・上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝は、最大で120万石にも達する所領を治めた大大名だ。
この時、4分の1にあたる30万石を領していた家臣がいた。それが文武兼備の智将と讚えられた直江兼続(なおえ かねつぐ)である。この人は兜の前立てに「愛」の1文字をあしらっていたことでも有名だ。

兼続は景勝を支えて軍事・内政・外交といった各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。
一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)などの牢人衆とも親交があり、人付き合いの広い人物だった。

そんな彼は上杉家に仕えた樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の子として誕生する。長じてからは景勝の側近として働き、この頃は樋口与六(よろく)と呼ばれていた。
しかし、景勝の側近である直江信綱(なおえ のぶつな)が毛利秀広(もうり ひでひろ)という人物に殺害され、この時直江家には跡取りがいなかった。名門・直江家の断絶を惜しんだ景勝は兼続に跡を継がせることにし、直江兼続がここに誕生したのだ。

以後、兼続は景勝の執政として縦横無尽に活躍する。軍事面の活躍としては、1587年(天正15年)の新発田城攻めなどがある。これは織田信長の誘いに乗って兵を起こした新発田重家(しばた しげいえ)との戦いだった。
この反乱はなんと6年にもわたって続き、景勝自身が兵を率いて出撃しながら敗れたこともあった。しかし、兼続は周囲の出城を次々と落とした末に平城ながら堅城として名高い新発田城を攻め落とし、新発田重家を自刃させることに成功する。

その後も佐渡で起きた反乱の鎮圧や小田原攻めなどで活躍し、景勝を支えた。
また、文禄の役では朝鮮征伐にも参加し、この戦いを無益なものと考えた兼続は自軍に略奪の禁止を厳しく言い渡し、また夥しい数の書物を収集して持ち帰ったという。

そんな彼をひどく気に入った人物がいる。当時の天下人、豊臣秀吉だ。「天下の政治を安心して任せられる数人の中のひとり」と絶賛し、「豊臣」姓を与えて何度も自分に仕えるように勧誘した。
大名の重臣に豊臣姓を与えて勧誘するのは秀吉の常套手段ではあるが、兼続は秀吉が死ぬ際に陪臣(家臣のさらに家臣)ではただひとり太刀を一振拝領した。このことから考えても、特別に寵愛された中のひとりだったのは間違いなさそうだ。

秀吉の死後、上杉家にとっての最大の試練がやってくる。
秀吉が死ぬ直前に景勝は会津に転封されて120万石の所領を得るのだが、入れ替わって越後に入った大名が景勝を訴える。これが機をうかがっていた家康にとって好機となり、家康は詰問状を送りつける。

対する返事として兼続が書いたのが名文として名高い「直江状(なおえじょう)」だ。この手紙の中で彼は異心のまったくない景勝を訴えた大名たちとそれを信じた家康を手厳しく非難し、「是非に及ばず」、つまり現代風にわかりやすく言うならば「それでも何か文句があるならばかかってこい」と言ってのけている。

現代に伝わっている「直江状」そのものはどうやら後世の偽書であるようなのだが、逆に言えば直江兼続はこうした手紙を書く人物だと信じられていたのである。
この返答に対して家康は軍を挙げて上杉征伐を行ったが、三成が挙兵したためにとって返して「関ヶ原の戦い」が始まるのはすでに述べたとおりだ。この時、兼続と三成が共謀してことを起こしていたという説もあるが、これも後代の創作と思われる。

さて、兼続と上杉家は関ヶ原での決戦には参加しなかったが、東軍側である最上家の長谷堂城を攻める。
黒田官兵衛の九州での決起に見られるように、関ヶ原の戦いは全国に広がって様々な「地方版・関ヶ原の戦い」が行われていたのだ。

ところがこの長谷堂城攻めはなかなか決着がつかず、そうこうしているうちに関ヶ原での決戦の結果が兼続の元に届く。
報告は石田三成の、そして西軍の敗北を伝えていた。仕方なく兼続は兵を退くが、報せはもちろん最上軍及びその援軍にやって来た伊達軍にも届いたから、彼らはかさにかかって追撃してくる。
戦うにあたって最も難しいのは撤退戦で、大軍を損害少なく退かせようとしたらその難しさは跳ね上がるものだ。それでも兼続は鉄砲隊を並べて散々に撃ちかけることによって最上・伊達勢を押し返す。そこに突っ込んだ前田利益らの活躍によって、どうにか上杉軍は無事撤退することに成功したのだ。

戦後、米沢30万石に減封されながらも上杉家は存続した。
ここでも兼続は機敏に立ち回り、様々に政治工作をしてこれに貢献した。上杉全体の所領が減ったことから兼続の領地も6万石に減ったが、彼は5万と5千石を他者に分け与え、自分はわずか5千石だけを受け取ったという。

その後は徳川政権の中で上杉家を繁栄させるために活躍し、内政面では堤防の建設などの米沢城下の整備や殖産興業の推進、さらに鉱山の開発などと米沢藩政の基礎を築いていく。また、軍事面でも「大坂の陣」に参加し、戦功をあげている。

彼は本多正信とも交流があり、その息子の本多政重を一時養子にしていた。上杉家の安泰をはかってのことだったとされている。しかし、兼続はなぜかのちにこの縁組みを解消し、さらに実の息子も早くに亡くなっていたため、直江家は彼の病死と共に断絶してしまう。

一説では、これは上杉の減俸の原因を作ってしまったことの罪滅ぼしのため、また財政的に厳しい上杉家のために財政の負担を減らそうとして、わざと直江家を断絶させたのだとも言われる。
生涯をかけて上杉のために戦い続けた直江兼続らしい処置ではないか。

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