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【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

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家康は従来の城を大改修して浜松城と改めました。ここにいた17年間という時間は家康にとって大きな意味を持つ時間だったはずです。まだ石垣を導入していない土造りの城だったとき、ここからどんな出来事に出くわしていたのでしょうか。

家康を大きく成長させた城

古城(=引馬城、右上)を取り込んで浜松城として大きく改修された(現地案内板より)

引馬城を改修、浜松城へ

家康は1570年(元亀元年)に居城を岡崎城からこの地に移しました。ここには永正年間(1504年〜1521年)ごろに今川氏によって築かれたとされる引馬城がありました。東海道と天竜川本流が交差する要衝に築かれた引馬城は、江戸時代の絵図によれば浜松城の北東部にあり「古城」と記されています。その城域は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。
浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧ください。

浜松市 歴史資料   絵図 浜松城と城下の絵図

家康は武田信玄の遠江侵攻に備え、この引馬城の堀を西の高い丘まで延ばして城の面積を広げる形で城を大拡張しました。それが現在の浜松城の原型となっています。このとき、「引馬」という地名が「馬を引く=戦に敗れる」という縁起の悪いものだったために、古名の「浜松荘」にちなんで「浜松」に改めたといわれます。

姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠設楽原の戦い、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦い

浜松城に在城したのは29〜45歳までの約17年間です。この17年間は家康にとって非常に深い期間だったと思われます。つまり、織田信長との同盟、武田信玄の侵攻、武田勝頼との攻防、織田信長の死、羽柴秀吉との争いなどたくさんの出来事があったからです。これらの出来事のすべてに対してここ浜松城から出陣し、大物武将と激突したのです。
詳しいことは別のコラムに譲りますが、三方ヶ原の戦いでは家康人生最大と言われる敗北を喫したり、小牧・長久手の戦いではのちの天下人となる羽柴秀吉と激突したりもしています。それだけではなく、本能寺の変による織田信長の死を受けて、織田家臣団の所領となっていた旧武田領を一気に平定して5か国領有するなど飛躍となるころでもありました。

五か国領有へ(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)

先にも述べた通り、武田の滅亡により織田家臣団が武田領である甲斐・信濃を押さえるための作戦行動を行っている最中に、日本全土を揺るがす大事件「本能寺の変」が起こりました。織田家臣団は旧武田領から逃げるようにして自国へ引き上げていきましたが、その後に甲斐・信濃を取り込んでいったのが徳川家康です。
三河・遠江・駿河に加えて甲斐・信濃の5か国を領有するまでに一気に勢力を拡大しました。これもすべて浜松城在城時に起こったことです。
駿府城に移ったのち浜松城には譜代大名が入れ替わり立ち代わり入城しますが、老中をはじめとした幕府の閣僚が排出されていきます。出世城と呼ばれる所以であり、幕府要職への登竜門となったのです。

大改修して「浜松城」に

家康時代の浜松城想像図(現地案内板より)

家康が浜松城を築城する前は方形館と思われる城で引馬城と呼ばれていました。家康在城時の浜松城の具体的な姿はまったく不明確ですが、古文書や出土遺物などから、引馬城から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺えます。また、家康が築城した浜松城は土造りの城で、石垣や天守などの瓦葺建物はなかったとされています。
三の丸を整備して城下町を拡張したのは、家康が駿府城に移ったのちの堀尾吉晴時代かさらにそれ以降の譜代大名が城主のときなので、家康時代の浜松城は江戸時代の絵図にある「古城」=引馬城を東端として二の丸、本丸、清水曲輪あたりの中枢部と、そこから堀を挟んだ北西対岸の「作左曲輪」までと考えられます。

この間に徳川の築城技術は格段に向上します。それは武田の城での戦の経験や武田旧家臣の取り込みによるものです。特に「横堀」と「馬出」を取り入れたことは非常に大きな変化となりました。2014年(平成26年)には本丸南から幅11m、深さ2mの堀が発掘されており、家康在城時の遺構の可能性が高いとされます。

また、浜松城絵図を見ると「古城」の東側の堀と中枢部の南側の堀は水堀ですが、その中央には堤防上の中土手が設けられていて、この城の特徴の一つです。家康時代に作られたものかどうかまではわかっていませんが、武田築城術を取り込んだ家康の先進性と考えてもよいかもしれません。

遺構は地中に眠る

家康時代の遺構は地中深くに眠っているのだろうか

いまの浜松城公園などにある浜松城の遺構のほとんどは、堀尾吉晴時代以降のものです。野面積みの天守台や本丸の石垣も堀尾吉晴時代のものと考えられています。残念ながら家康時代の遺構が表出しているものはありませんが、先にも述べた通り家康時代のものと考えられる堀が発掘されており、地下には多くの遺構が眠っているのではないかと想像を掻き立てられます。

浜松城の基本情報

築城者 今川貞相(諸説あり)
築城年代 永正年間(1504年~1521年)
別名 引馬城、曳馬城、出世城
分類 梯郭式平山城
家康にまつわる出来事 元亀元年に武田侵攻に備えて岡崎城から本拠地を浜松城に移して拡張。地名を「引馬(ひきま)」から「浜松」に変更した。
歴代城主 家康→堀尾吉晴→松平忠頼→高山忠房→太田氏→青山氏→本庄松平氏→大河内松平氏→井上氏→水野忠邦→井上氏

まとめ

武田侵攻に備えたとはいえ、家康が浜松城に居城を移したことは転機になったと言えるでしょう。古城を取り込んで大拡張し、新たに「浜松城」としたのです。武田旧家臣の取り込みによる築城術の進歩も大きな変化と言え、浜松城での17年間は知識や技術、戦略や戦術を蓄えるとても大切な時間だったように思います。
単なる「出世城」ではなく、当時の家康がどんな思いで浜松城を築城したのかを想像しながら遺構を探してみるものおすすめです。

参考文献

  • 現地案内板
  • 浜松城パンフレット
  • 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
  • 「歴史群像シリーズ 図説縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
  • 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
  • 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
  • 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)

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