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【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

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長い期間をすごした浜松城から、なぜ家康は駿府に移ったのか。そしてどのような城を築いたのでしょうか。さらに晩年も過ごした駿府は家康にとってどのような城なのでしょうか。天守台の発掘調査や門や櫓の復元によって新たな事実が判明している駿府城で家康の考えをのぞいてみましょう。

家康にとっての駿府城

家康は駿府城を築城し、晩年を駿府で過ごした

駿府城と家康のかかわりは二つあります。一つは駿府城を築城した天正期と、もう一つは将軍職を譲った後の1607年(慶長12年)以降(慶長期)です。現在、駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。
慶長期以降のものは後述するとして、ここでは天正期に駿府城を築城するに至った経緯について書いていきます。

家康は1585年(天正13年)に駿府城を築城し、浜松城から移ったといわれています。徳川家康時代のことが良く書き記されている「家忠日記」を見てみると、天正13年8月14日に「駿府府中普請のために」駿府に出かけ、20日に「石引普請をした」とあります。さらに、天正15年1月26日に「駿州普請のため、浜名まで出た」とあり、2月5日には「御構え二の曲輪の堀普請をした」、2月13日には「城(堀か?)普請が出来た。石取りをした」と書かれています。つまり天正13年から15年にかけて駿府城普請が行われていたことがわかります。

家康が大拡張して17年間も居た浜松城から駿府城に移ったのには大きなわけがあります。それは前年に起こった「小牧・長久手の戦い」です。家康は織田信雄との同盟のもと、本能寺の変後に織田家臣団の中で一気にトップに躍り出た羽柴秀吉と激突したのが「小牧・長久手の戦い」です。この戦いでは、犬山城を奪い取った秀吉方が南方へ押し出して三河付近まで攻め込みました(犬山城の戦い、岩崎城の戦い、長久手の戦いなど)。
浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです。さらには重臣の石川数正が秀吉のもとへ出奔し、徳川軍の戦略や城の構えまでもが筒抜けになってしまったことも大きな要因となりました。

こうしたことから、秀吉領国からより奥まった位置、つまり駿府への移転による安全確保と、小田原北条氏との連携を強化する目的があったと考えられます。小牧・長久手の戦いによる秀吉との対峙で危機感を募らせた結果ともいえるでしょう。

天正期天守台は家康か? 中村一氏か?

天正期の天守台石垣は誰が築いたものだろうか

駿府城公園では本丸の発掘調査が長きにわたって行われ、慶長期以降の天守台の下に天正期と思われる天守台石垣も発掘されました。一説には家康の関東移封ののちに入城した中村一氏による築城と言われていますが、徳川家康時代の天守台の可能性も十分にあると考えられています。なぜなら、松平家忠は天正15年9月17日に「駿河の御城御普請がある」と連絡があり、天正16年5月12日には「天守の材木手伝い普請」を行い、天正17年2月17日には「小天守の手伝い普請」を担当しているためです(いずれも「家忠日記」より)。
このような記録や発掘調査の結果から今よりも小規模であったことは明らかですが、家康初期の駿府城の姿を見ることはできません。さらなる発掘調査や研究の結果によって家康築城期の駿府城の姿が明らかになることを期待しましょう。

最先端技術の駿府城

門や櫓が復元され、最先端の技術を用いて築かれた駿府城を体感できる

いま現在見ることができる遺構は、すべて慶長期以降に築城または改修された痕跡です。駿府城公園には二の丸の水堀や本丸の堀の一部、石垣などが良好な状態で残されており、輪郭式縄張りを体感することもできます。さらに、1989年(平成元年)には巽櫓が、1996年(平成8年)には二の丸東御門が、2014年(平成26年)には坤櫓がそれぞれ復元されました。これにより駿府城の本来の姿が見える化され、当時の姿を体感することができます。

復元された東御門は二の丸の東側の出入り口であり、いわゆる「枡形(ますがた)」の門となっています。つまり、方形の区画を石垣と堀で囲み、中堀にかかる東御門橋と高麗門、櫓門、南及び西の多門櫓で構成されています。よく見るとこの枡形は一部が堀に出っ張った状態になっており、内枡形と外枡形の混合型ともいえる構造です。これは江戸城でも見られる構造で、江戸城から慶長期の駿府城に引き継がれ、さらに後に誕生する名古屋城にも引き継がれた最新の枡形構造なのです。
さらに、本丸の玄関前御門とその前面の馬出や、台所御門とその前面の馬出の構造は名古屋城に引き継がれているもので、石垣を用いた枡形門と武田流築城術の馬出を組み合わせた最新型の防御構造なのです。

1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると、1607年(慶長12年)2月に全国の大名に命じて駿府城の大改修が行われます。これは公儀普請(天下普請)と呼ばれるもので、国家プロジェクトとして築城を行うというものです。公儀普請で築かれた城は駿府城のほかに、膳所城にはじまり、福井城、加納城、彦根城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城などがあります。
同年7月には家康が駿府城に入城しますが、12月には天守建造中に火災で焼失し、1610年(慶長15年)に再建されました。当時の記録から天守の平面は桁行12間、梁間10間(約25m×21m)であることがわかり、現存天守最大の姫路城天守とほぼ同じ規模です。しかし天守台は東辺約28間、北辺約24間であり寛永度江戸城天守(18×16間)、名古屋城天守(17×15間)をはるかに凌ぐ大きさです。天守は天守台いっぱいに建てられるのではなく中央に建てられ、さらに天守台の周囲を多門櫓で囲む「天守曲輪」を形成していたと考えられます。これは大変珍しい構造で、その遺構などが見える化されることを期待します。

駿府城の基本情報

築城者 徳川家康
築城年代 1585年(天正13年)
別名 府中城、駿河府中城、静岡城
分類 輪郭式平城
家康にまつわる出来事 天正13年に近世城郭として築城。天守も建造したか。その後に江戸へ移るが、慶長期に入り将軍職を譲った後に隠居城として移る。
歴代城主 家康→中村一氏→徳川頼宣→徳川忠長→天領となり城代を置く

まとめ

駿府城は家康が築城した近世城郭ですが、小牧・長久手の戦い直後に築城したことや立地を考えると対秀吉戦略の一つと考えられます。また、発掘調査によって発見された天正期の天守台石垣は家康築城期のものとも考えられる遺構で、当時を知ることができる大変貴重なものです。駿府城公園は堀や石垣が良好な状態で残っているほか、櫓や門も復元され当時の姿を体験できるので、ぜひじっくりと散策してほしい城です。

参考文献

  • 現地案内板
  • 駿府城公園総合ガイドパンフレット、駿府城二ノ丸東御門巽櫓パンフレット、駿府城二ノ丸坤櫓パンフレット、駿府城天守台まるごと発掘(発掘調査概報)
  • 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
  • 「歴史群像シリーズ 図説縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
  • 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
  • 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
  • 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)

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