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【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

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桶狭間の戦いは、駿河・遠江・三河を領有し、強大な力を持つ今川義元を、尾張の武将である織田信長が打ち破った戦いとして有名です。当然のことながら、織田信長のサクセスストーリーとして描かれることが多い戦いですが、家康(この当時は松平元康)も大きく関わり、そしてターニングポイントになった戦いとしてもよく知られています。
ここでは、元康がどのような働きをしながらどのようなターニングポイントを迎えたのかを見てみましょう。

大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃

桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成)

1560年(永禄3年)、今川義元は駿河・遠江・三河を支配していました。5月になると尾張を目指して大軍を進軍させますが、その先陣となったのが19歳の松平元康(のちの徳川家康)です。

家康は幼少は竹千代と呼ばれ、1549年(天文18年)、8歳の時に今川家の人質として駿河へ渡り、元服して松平元康と名乗っていました。松平家は今川家の家臣として尾張と接する西三河を領有していましたが、元康は今川家を支える武将候補として大いに期待されていたのです。
桶狭間の戦いのとき元康は19歳で、尾張へ進軍する今川軍の先鋒として三河勢を率いていました。そして、大事な任務を帯びていたのです。それが「大高城兵糧入れ」です。
1560年(永禄3年)5月18日夜、元康が1000人の兵を率いて織田方に包囲されていた今川方の拠点・大高城に兵糧を搬入した任務のことです。

ここで、桶狭間の戦い前夜の情勢を整理しておきましょう。
今川方は桶狭間の合戦の前に少しずつ尾張に侵攻してきていました。尾張に最も近い位置の鳴海城、鳴海城から南西2kmの大高城、鳴海城から東北東6.6kmの沓掛城を押さえており、鳴海城を北の頂点とする三角形の拠点を形成していました。

それに対して織田方は、鳴海城の北に丹下砦、東に善照寺砦、南東に中島砦の3つの砦を築いて囲み、さらに大高城の北東に鷲津砦、東に丸根砦の二つの砦を鳴海城と大高城とを遮断するように築いていました。大高城の南にもいくつかの砦が作られ、大高城、鳴海城は孤立した状態に追い込まれていたのです。従来は西へ攻めてきた今川義元に対して信長は奇襲をかけて打ち破ったと言われてきましたが、今川義元の侵攻に対して信長が対抗策を打っていたことがよくわかります。

このような情勢の中、大高城に兵糧を入れるために命じられたのが元康ということになります。大高城は熱田にほど近い場所で、織田方に深く入り込んだ今川方の最前線です。しかも上述したようにいくつもの砦に囲まれており、兵糧を入れるのは並大抵のことではありません。しかし、1000人(2500〜3000人とも言われる)の兵を率いた元康は、5月18日に織田方の包囲を突破して大高城に兵糧を搬入することに成功しました。

そして、これに合わせて丸根砦の攻略も家康の任務となっていたため、19日未明から攻めて見事に攻め落としました。丸根砦は、大高城への物資供給ラインとなる街道を抑える目的で作られた砦であるため、丸根砦を落とすことができたのは今川側にとっては良い知らせとなったはずです。信長公記によれば、このときの元康は朱色の甲冑を身に着けていたようです。
この元康の働きが緒戦となり、これで大高城の孤立は解消されて今川方にとっては有利に動くはずでした。この勝利を喜んだ義元は元康に大高城で休息をとるように命じましたが、義元は信長の強襲を受けてあえなく討ち死にしてしまいました。

義元討死からの脱出  

大高城跡は整備されていて見学しやすい

大高城にいた元康のもとに義元が討ち死にしたとの報が入りますが、すぐには動かなかったようです。それは織田方の偽情報の可能性があったためで、迂闊に退却してもし万が一義元が生きていたとしたら大高城を捨てて逃げたことを責められてしまうからとも推測されます。使いの者からの報告で義元の死を確認した元康は19日夜に大高城を脱出し、20日夜に岡崎城下に逃げ延びたと言われます。

岡崎城入城と三河平定 

家康時代は岡崎城に入城したときはどんな心境だったのだろうか

三日後の23日、岡崎城にいた今川兵が逃げ去ると代わりに元康が入城しました。ここで元康は選択に迫られたことでしょう。今川家に従って織田氏と戦うのか、織田氏に寝返って今川家と戦うのか、それとも独立するのか。
元康は、今川義元の嫡男氏真には織田に対する守りは任せてほしいとの書状を送り、西三河の織田方の拠点となっていた挙母(こもろ)、梅坪などを攻め、さらには沓掛城にも攻撃を仕掛けるなど行動を起こしました。さらに義元の弔い合戦は早く行うべきと何度か氏真に申し入れをしましたが、氏真は一向に動こうとしませんでした。

そこで元康は信長との和平を取りまとめ、1561年(永禄4年)2月に同盟を結びました(※同盟については諸説あり)。今川氏真がそれを知ったのは同年4月であり、それ以降東三河へ侵攻していきました。しかし決定打とはならず、逆に元康は1563年(永禄6年)に元康から家康に改名。三河一向一揆が勃発するもこれを半年で制圧。さらには東三河に侵攻し、今川方の拠点である吉田城や田原城、牛久保城などを攻め取り、1565年(永禄8年)ごろまでに制圧して三河をほぼ平定することに成功したのです。

桶狭間の戦いの後、すぐに今川から独立したかのように語られることが多いですが、今川から独立して三河を平定するのにおよそ5年の年月がかかっています。今川と織田に挟まれた状態でどちらに組するべきかに奔走しながら、時間をかけて三河を手中に収めていったのが本当の姿なのです。
その後、徳川姓に復姓することができ、徳川家康として歩んでいくのです。

まとめ

今川方の松平元康として参戦することになった桶狭間の戦いをざっと見てきました。これを起点に情勢が大きく変化していく中、どの道を進むべきかを探しながら徳川家康として歩みを進めてきたことをうかがい知ることができました。桶狭間の戦いは家康にとってはターニングポイントとなった戦いですが、それは後に振り返ってみればという話だったのかもしれませんね。
とは言え、この戦いの後に「徳川家康」が誕生したことは間違いありません。ここから家康がどのように歩んでいくのかも、今後追っていきましょう。

参考文献

  • 日本戦史 桶狭間役(明治32年12月30日、参謀本部)
  • 桶狭間・姉川の役/日本の戦史1(旧参謀本部編、昭和40年6月1日、徳間書店)
  • 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA)
  • 愛知県史 通史編3 中世2・織豊(平成30年3月30日、愛知県)
  • 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
  • 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
  • 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
  • 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
  • 週刊 新説戦乱の日本史 桶狭間の戦い (小学館)
  • 「信長公記で追う 桶狭間への道」 (水野誠志朗、2012年6月1日、インロック)
  • 歴史群像シリーズ⑪ 徳川家康【四海統一への大武略】 (1989年4月1日、学習研究社)
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