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【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

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榎本秋の家康の謎

「徳川家康は幼少期に今川氏の人質だった」という話は、歴史にあまり詳しくない人でも聞いたことがあるレベルの知識であり、ほとんど常識と言ってもいいだろう。
竹千代と呼ばれた頃の家康は故郷の岡崎から引き離され、今川氏お膝元の駿府で苦難の幼少期を過ごした。これが忍耐多き家康の人生の始まりである……というのが「徳川家康物語」の定番だ。

しかし近年の研究では「家康は人質ではなかった」というのが通説になりつつあるのをご存知だろうか。
個人的には、これは「人質」という言葉の定義の問題であるようにも思える。私たちは「人質」という言葉から、いざとなったらすぐ殺されるような過酷な扱いをついついイメージしてしまう。
だが、駿府時代の家康は必ずしもそのような扱いではなかったようなのだ。

家康が元服の際に義元から「元」の字を賜ったのは既に紹介した通りだが、この元服に際して加冠役を務めたのは義元自身だった。また、元服の2年後には今川一門・関口氏純(せきぐち うじずみ)の娘を正室・築山殿として迎えたので、家康は今川一門の中に数えられることにもなる。
そもそも義元の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)が教育を施したとされるエピソードから言っても、義元は家康を「将来の今川氏を支える優秀な一門衆候補」と見なしていたのではないか。

また、松平広忠が死んで家康が三河に不在だった時期、三河の上級武士たちは家康を通り越して義元と直接主従の関係を結んでいたのだが、家康は1559年(永禄2年)にこの上級武士たちと関係性を結び直していたことがわかっている。
もちろんその家康の上には今川の重臣がいて、さらには義元がいるわけだが、家康が通説で語られるような宙ぶらりんの苦しい立場にいたわけではないことがわかっていただけるのではないか。

では、どうして義元は家康を厚遇したのか。
これについて「義元はもともと松平氏の三河支配体制を解体して独自の体制を作るつもりだったが、うまくいかないので従来の体制を利用することにしたのではないか」という説との関係が見出せそうだ。全くの新規体制を作るなら家康はいらないが、従来の体制を利用するなら家康と松平家臣団の関係性を利用した方が効率いい。
つまり家康は三河支配のために必要だったからこそ厚遇されたのではないか、というわけだ。

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